東藝術倶楽部瓦版 20180214:勉強会に向けてその②ー太田道灌の築いた江戸城

 

おはようございます。4年に1度の冬の祭典、平昌オリンピックが開催されています。連日連夜、日本選手の活躍が報道されていますが、今のところまだ金メダルの吉報はありません。このスポーツ選手たちの真剣な努力の結果が、どす黒い世界の利権争いに巻き込まれないことを祈るのみです。

 

さて、本日のテーマは前回予告した通り、「江戸城の歴史」で話を進めたいと思います。最初に江戸城を建てたとして、一般に知られているのは太田道灌〔資長(すけなが)、永享4年(1432年)~文明8年(1486年)〕です。もともとこの地には、平安時代中期の武将・平良文(たいらのよしふみ)の孫である秩父将常(平将恒、たいらのまさつぐ)〔寛弘4年(1007年)~天喜5年(1057年)〕の子孫・江戸氏の居館がありました。12世紀初めごろに江戸重継が荏原郡桜田郷の北東部、江戸湾に臨む台地上に設けたとされ、その場所は近世江戸城の本丸台地上と推定されています。

 

その後、江戸氏の子孫が多くの庶流に分かれて勢力が衰え、長禄1年(1457年)に関東管領扇谷上杉氏の家宰・太田道灌がこの地に築城したのが江戸城の始まりです。この城は、扇谷上杉氏が当時対立していた古河公方・足利成氏(あしかがしげうじ)に対抗するための拠点として築いたものです。道灌の江戸城は、子城(しじょう)、中城(なかじょう)、外城(とじょう)の三つの郭があり、各郭は周囲に土塁を巡らし、郭と郭の間には空濠を設けた比較的小規模なものだったと言われています。その位置は、最近の発掘調査で今の本丸から北の丸公園辺りであったものと考えられています。

 

道灌の死後、一時期、曽我豊後守(そがぶんごのかみ)が城代として入り、さらに扇谷上杉朝良(うえすぎともよし)〔文明5年(1473年)~永正15年(1518年)〕、朝興(ともおき)〔長享2年(1488年)~天文6年(1537年)〕が入城しました。大永4年(1524年)、高輪原の戦いで相模の戦国大名・北条氏綱〔長享元年(1487年)~天文10年(1541年)〕に敗れた朝興は江戸城を放棄して河越城に逃走し、以後、江戸城は北条氏の支城となりました。北条氏の支城だった期間は、この大永4年(1524年)から、豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされる天正18年(1590年)までの66年間で、その間、城代として太田氏、富永氏、遠山氏などが送り込まれました。

 

次回は、徳川家康以降の江戸城の歴史について紹介していきたいと思います。

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年2月14日 10:32に書いたブログ記事です。

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