東藝術倶楽部瓦版 20190709:窮乏脱却のために再開された「内藤新宿」

 

おはようございます。小暑も過ぎて大暑に向かうというのに、朝晩は比較的涼しい日が続いています。それでも昼間は蒸し暑く感じ、クーラーの効いた部屋に入るとホッとします。もう暫くすると学校も夏休み。我が職場も6月から10月の間に8日間の夏休み取得権利があるのですが、これまで満足に消化できたことはありません。さて、今年の夏はどうなることやら?

 

本日は、江戸四宿の最後の一つ、「内藤新宿(ないとうしんじゅく)」について紹介したいと思います。内藤新宿は甲州街道の江戸日本橋から数えて最初の宿場で、宿場内の新宿追分から分岐する青梅街道(成木街道)の起点にもなっていました。現在の東京都新宿区一丁目、二丁目、三丁目一帯にわたる地域です。

 

慶長9年(1604年)、江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められますが、それ以前の慶長7年(1602年)には高井戸宿が甲州街道最初の宿場として設けられていました。しかし、高井戸宿は日本橋から約4里(約16キロメートル)の距離にあり、徒歩が主な交通手段であった当時からすると、品川宿や千住宿、板橋宿に比べかなりの負担を強いられていました。特に、日本橋伝馬町と高井戸宿の人馬の提供に係る負担は相当なものだったと思われます。

 

そこで、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛ら5人の浅草商人が、公儀に対して日本橋と高井戸宿の間に新しい宿場を開設したいと願い出ます。それが元禄10年(1697年)のことです。翌元禄11年(1698年)、幕府は5,600両の上納を条件に宿場の開設を許可します。日本橋から2里弱の場所で、青梅街道に分岐する辺りということで、新宿追分の東側一帯がその対象地域となりました。当時その場所は、信濃国高遠藩内藤家の下屋敷があり、その一部も割かれた形で宿場が形成されてきました。内藤新宿の名称の由来は、この内藤家の屋敷からきているといわれています。実際に伝馬の業務が開始されたのは元禄12年(1699年)のことでした。

 

ところが、内藤新宿開設から20年も経たない享保3年(1718年)、内藤新宿の廃止が通達されます。その理由は交通量の少なさとも、享保の改革に伴う風紀取締りの一環ともいわれていますが、どうやら後者の理由が真相だったようです。

 

しかしその後、明和9年(1772年)に内藤新宿が再開されることになります。その理由というのが、各宿場の財政悪化と人馬提供の負担増にありました。幕府は宿場の窮乏に対し、風紀の規制緩和を行い、助郷村の増設によって対応することとしたのです。各宿場の窮乏に際し、幕府は明和元年(1764年)に、それまで「旅籠屋1軒につき飯盛女2人まで」とされていた制限を、宿場全体で上限を決める形式に変更しました。これにより、各宿場の財政は好転し、内藤新宿廃止の理由も立たなくなったというわけです。

 

日本橋から内藤新宿までの距離は1里29町(約7.1キロメートル)、内藤新宿から次駅の下高井戸宿までが2里、上高井戸宿までが2里余です。宿場は東側の四ツ谷の大木戸寄りから下町、仲町(中町)、上町に分かれ問屋場は時代によってこの3町の間で移動していました。宿建人馬は2525疋で、天保14年(1843年)ころの記録では、戸数698戸、人口は2,377人、本陣は仲町に1軒あっただけで脇本陣はなし、旅籠屋は24軒となっていました。飯盛女の上限は150人とされていましたが、実際にはもっと多かったようです。

 

内藤新宿の近隣には、飯盛女たちの信仰を集めた「奮衣婆(だつえば)像」を祀る寺院が多く、「しょうづかの婆さん」の太宗寺、「綿のおばば」の正受院、飯盛女の投げ込み寺であった成覚寺、「追出しの鐘」と呼ばれる梵鐘のある天龍寺、「三光院稲荷」とも呼ばれる花園神社などがありました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年7月 9日 10:45に書いたブログ記事です。

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