おはようございます。西日本では連日の大雨で、災害の恐れが高まっています。気象庁も避難勧告を多発する異例の事態となっています。東日本では、今日から明日にかけては警戒が必要になるくらいの豪雨に見舞われるところもあるかと思います。不急の外出は避けた方がいいかもしれません。私もおとなしくしていたいところですが、本日は昼、夜ともに会議や交流会といったイベントが入っており、気が滅入っているところです。
さて、これまでしばらくの間、日本中の街道を渡り歩いてきたので、本日はしばらくぶりに江戸に帰ってみたいと思います。そこで、今回は五街道の起点である日本橋から各街道の最初の継立駅(つぎたてえき)となった「江戸四宿(えどししゅく)」について紹介してみましょう。
五街道の起点が江戸日本橋であったことは、すでに紹介した通りですが、五街道にはそれぞれ最初の宿場がありました。東海道には「品川宿」、日光街道及び奥州街道には「千住宿」、中山道には「板橋宿」、そして甲州街道には「内藤新宿」(当初は「高井戸宿」)です。基本的には、日本橋から2里(約8キロメートル)以内を目途としており、人、物資、情報、文化等の集積地として機能するなど、江戸の玄関口として重要な役割を果たしていました。
日本橋から品川宿までは7.9キロメートル、千住宿までは8.7キロメートル、板橋宿までは9.8キロメートル、内藤新宿までは7.1キロメートルです。「板橋と聞いて迎えは二人減り」と川柳にもあるように、板橋は品川と違って日本橋から最も距離があり、旅帰りの出迎え人からもとかく敬遠されがちだったようです。ちなみに、日本橋から甲州街道の下高井戸宿までは約16キロメートルありました。
江戸四宿は、それぞれに「岡場所(おかばしょ)」と呼ばれる幕府非公認の遊郭があり、「飯盛女(めしもりおんな)」の名目で遊女が置かれていました。中でも、品川宿での遊女の数が最も多かったといわれています。
日本橋と江戸四宿との間の役務(荷役用の人足と駄馬)は、日本橋の大伝馬町と小伝馬町、そして京橋の南伝馬町の三伝馬町が受け持ち、往復ともその役務を担っていました。江戸四宿以降も同様に、宿駅ごとに運び手が交代する仕組みになっていました。こうした伝馬業の手配や事務作業は「問屋(といや)」が行っていたことは、以前紹介した通りです。
三伝馬町の経費は、当初は江戸幕府が直接支給していましたが、やがて「伝馬役銭(てんまやくせん)」と呼ばれる江戸市中の家持に課せられていた一種の固定資産税の中から必要経費が賄われるようになりました。しかし、その運営はかなり苦しかったようです。
【品川宿】
五街道(脇街道など):東海道、(品川湊)
日本橋からの距離:2里(約7.9キロメートル)
家数、人口(天保年間):1,600戸、7,000人
宿泊施設(天保年間):本陣1、脇本陣2、旅籠93
飯盛女の上限:500人
次の宿場:川崎宿
【千住宿】
五街道(脇街道):日光街道、奥州街道、(水戸街道)
日本橋からの距離:2里8町(約8.7キロメートル)
家数、人口(天保年間):2,370戸、9,556人
宿泊施設(天保年間):本陣1、脇本陣1、旅籠55
飯盛女の上限:150人
次の宿場:草加宿
【板橋宿】
五街道(脇街道):中山道、(川越街道)
日本橋からの距離:2里18町(約9.8キロメートル)
家数、人口(天保年間):573戸、2,448人
宿泊施設(天保年間):本陣1、脇本陣3、旅籠54
飯盛女の上限:150人
次の宿場:蕨宿
【内藤新宿】
五街道(脇街道):甲州街道、(青梅街道)
日本橋からの距離:1里29町(約7.1キロメートル)
家数、人口(天保年間):698戸、2,377人
宿泊施設(天保年間):本陣1、脇本陣0、旅籠24
飯盛女の上限:150人
次の宿場:高井戸宿
次回からは、それぞれ四宿について紹介してきたいと思います。
高見澤