おはようございます。昨日は激しく降っていた雨も、今朝はすっかりやんで少し肌寒い感じの朝を迎えています。東京都心の今日の天気予報は曇り、夜は降水確率が上がり、明日は雨模様とのこと。梅雨らしく、傘が手放せない日が続きます。
さて、本日は「東金御成街道(とうがねおなりかいどう)」について紹介したいと思います。東金御成街道は、徳川家康が慶長18年(1613年)に老中・佐倉藩主・土井勝利に命じて作らせた道で、慶長19年(1614年)正月から工事が始まり、元和元年(1615年)11月に完成したとされています。下総国船橋から上総国東金まで、下総台地の分水嶺を南北に貫く全長約37キロメートル、幅3間(約5.5メートル)の道です。両側には松が植えられ、小川には橋を架け、谷間には土手が造られていました。
この街道は、沿道の村97ヶ村の農民を総動員して三日三晩、昼夜兼行で作ったといわれ、別名「一夜街道」、「提灯街道」とも呼ばれ、また、家康の別称から「権現道」などとも称されています。船橋から東金までは枡形道や曲尺手のない直線道路であることが大きな特徴で、街道の沿線には、将軍が休息・宿泊するための施設として、船橋御殿、千葉御茶屋御殿、千葉御殿、東金御殿、土気(とけ)御殿などが造られました。東金(田間)から先の同じ上総国の山武(小松)までは「砂押街道」と呼ばれる道があり、この道も東金御成街道と同時に造成されました。
この街道が作られた目的は、家康が九十九里方面での鷹狩りをするためと言われています。しかし、単なる鷹狩りだけでこうも短期間で直線的な道路を整備する必要はなく、内実は、大久保忠隣(おおくぼただちか)が謀反を企てているとの情報を得た家康が、鷹狩りを口実に九十九里方面の検分を行うために急遽作らせたとの説もあります。また、この街道は九十九里浜の干イワシの輸送路としても利用され、繁栄したといわれています。
将軍の身の安全を確保するために、東金に向かうルートとして「土気道(土気往還、大網街道)」など複数の道が設けられていました。
高見澤