東藝術倶楽部瓦版 20190617:「敵に塩を送る」義塩の道-「千国街道」

 

おはようございます。梅雨の合間の晴れ間とでも言えるでしょうか、今朝も昨日に続いて気持ち良く太陽が雲の合間から顔をのぞかせています。昨朝大阪吹田市で起きた拳銃強奪事件ですが、先ほどその容疑者に対する逮捕状が出され、東京都品川区に住む男が指名手配となっています。大阪ではG20首脳会議が間近に迫り、主要国要人の来日が予定されているなか、早急に犯人逮捕が望まれるところです。

 

さて、本日は「塩の道」として知られる「千国街道(せんごくかいどう)」について紹介したいと思います。古来、塩が採れなかった内陸地には、海に面した地域から塩を運ぶ必要があり、その塩を運んだ道を「塩の道」と呼んでいました。越後国糸魚川と信濃国松本を結ぶ千国街道は、代表的な塩の道として知られています。越後国では「松本街道」、信濃国では「糸魚川街道」とも呼ばれ、その距離は約130キロメートルに及びます。

 

戦国時代、甲斐国の武将・武田信玄が従来同盟関係にあった駿河国領主の今川氏真との関係が悪化し、駿河国からの塩の供給が止められた際に、越後国の敵将・上杉謙信が越後国で採れた塩を信濃国に送ったとされる義塩の美談があります。「敵に塩を送る」という成語の由来になった話で、その塩もこの千国街道を利用して送られたといわれています。ただ、この義塩の話は、謙信があくまでもビジネスの観点から塩の供給を止めなかったというだけのことで、後世の人々が義に厚い謙信の人柄を思い憚って美談に創り上げたものというのが、史実のようです。

 

千国街道は、途中にある信濃国小谷(おたり)村千国宿にその名称の由来があります。この街道が代表的な塩の道として認識された背景には、道筋に古道そのままの姿が残されているからとだ思われます。千国街道北部は糸魚川/静岡構造線の大断層に沿うように流れる姫川とともに、白馬佐野坂から糸魚川へと道が続いています。

 

青森県の三内丸山遺跡からは、信濃国和田峠の黒曜石とともに糸魚川の翡翠が出土しています。出雲大社の重要文化財である「翡翠玉」は糸魚川原石由来との鑑定結果が出ているとのことで、千国街道が「翡翠の道」とも呼ばれているそうです。また、神話時代には「諏訪様入信の道」であったとされ、以下のような話があります。

 

越国の「奴奈川姫(ぬながわひめ)」は、出雲国の王である「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と結婚し、「建御名方命(たてみなかたのみこと)」を授かりました。大国主命は建御名方命を連れ出し出雲に帰りました。この頃、大和朝廷が権力を強め、出雲国と交渉し、国譲りが行われていました。建御名方命はこれに反対し、その後戦いに敗れ、母の国である越国を通って信濃国諏訪の地へと逃れました。その際に塩の道である千国街道を通って諏訪へと向かったのではないかと思われています。後に建御名方命は大和朝廷と和解し、諏訪の祭神「諏訪様」として祀られたということです。7年ごとに行われる諏訪大社の「御柱祭」の前年に、小谷村土戸(とど)にある小倉明神と境の宮諏訪社で交互に行われる「薙鎌(なぎかま)打ちの神事」は、諏訪明神の神威が直接及ぶ範囲を示す神事であり、同時に建御名方命が母である奴奈川姫の故郷・越国への思いを示したものであるとされています。

 

千国街道は参勤交代の大名行列の往来はなく、もっぱら海側から塩や海産物を内陸に、内陸からは麻や煙草を海側に運ぶ「暮らしの道」でした。深い谷間の道を牛方(うしかた)や歩荷(ぼっか)が荷物を運びます。牛方とは、牛を使って荷物を運ぶ運送者で、雪のない季節に沿道の農民たちが農繁期の合間に行っていた「作間稼ぎ(さくまかせぎ)」のことを指します。歩荷は、特に雪が降り始めてから活躍する運送者で、荷物を背負って運ぶ人たちです。こちらも主に街道筋の農民が従事していました。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2019年6月17日 10:38に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20190614:荻久保(荻窪)の中屋の店に酔伏せて-「青梅街道」」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20190618:石工の往来路から薪炭・農産物輸送路へ-「伊奈街道(五日市街道)」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ