おはようございます。今朝、また北朝鮮が2発の短距離弾道ミサイルを発射したようです。2日前にも発射したばかりで、日本政府は北朝鮮の動向に目が離せない状態が続いています。日本は貿易管理の面でも、韓国とも外交・通商面で緊張が続いており、朝鮮半島情勢は先が読めません。地球は混迷のスパイラルに入ってしまったのかもしれません。
さて、本日は江戸の町に多発していた交通事故についてお話ししたいと思います。もちろん、江戸時代には自動車なんぞありませんので、交通事故といってもピンとこないかもしれません。それでも交通事故が頻繁に起きていたというのですから、いったいどういうことなのでしょうか?
これまで紹介してきたように、江戸時代には牛車や大八車といった車が走っていました。これらの車は速度も速くなく、事故など起こりようもないように思えますが、実は意外にもこれらの車に轢かれる交通事故が頻繁に起こっていたのです。
五街道をはじめとする各街道は比較的道幅が広く作られていましたが、江戸の町中の道路は狭く、物資を運ぶ車で混雑していました。元禄時代には1,000~2,000台にも上る大八車が江戸にあったものですから、その混雑ぶりは予想以上かもしれません。
大八車によるほとんどの事故は、実は坂道で起きていたのです。東京都内を歩いてみるとよく分かりますが、江戸の町は至るところに坂道がありました。下り坂に差し掛かった大八車が一気に加速して制御不可能になることが少なくありませんでした。もちろんブレーキなどもなく、重い荷物を積んだ大八車が猛スピードで坂を転がり落ちれば、逃げ場を失った人たちは避け切れずに轢かれてしまいます。しかもその被害は大きく、命を落とす人も少なくなかったようです。また、牛や馬が何らかの刺激を受けて突然暴れ出し、牛車に轢かれたり馬に蹴られたりする事故もありました。
江戸の町でこうした交通事故が頻繁に起きていたことから、江戸幕府はその対策に乗り出します。車間距離の設定、積載量の制限、狭い路地での駐車禁止など、今の道路交通法にも通じるようなルールが設定されます。しかし、それでも事故が一向に減らないことから、享保元年(1716年)、幕府はついに罰則を設けました。
交通事故で人が死亡した場合、たとえ過失であったとしても、車を操作していた者は「島流しの刑」とされます。当時、島流しの刑は死罪に次ぐ重刑とされており、それほど江戸では交通事故の深刻さが問題となっていたのです。
しかし、それでも事故を防ぐことができず、寛保2年(1742年)に幕府は、死亡事故を起こしたものは死罪の上に家財没収という非常に厳しい刑罰を科すことにしました。そして事故を起こした当事者ばかりでなく、荷主に対しても罰金等の刑罰が科せられました。これもまた、連帯責任を重んじた江戸時代ならではの罰則なのかもしれません。
高見澤