東藝術倶楽部瓦版 20190805:【江戸の乗り物その12】江戸時代の移動は徒歩が当たり前

 

おはようございます。昨晩、福島沖を震源とするやや強い地震があり、宮城県と福島県の一部で震度5弱を観測、東京でも揺れが比較的長く続きました。気象庁の発表では、2011年3月に起きた東日本大震災の余震とのことですが、すでに8年以上も経っている地震のエネルギーが未だ解放されずに留まっているというのも不思議な話です。余震の定義に拘るつもりはありませんが、地震発生のメカニズムの解明や現実的な対応策につながる地震研究が求められます。

 

さて、本日は乗物から離れて、江戸時代の人々の移動で当たり前であった徒歩についてみてみようと思います。ちなみに、現在、私が平日に歩く歩数は1万歩前後で、1歩当りの長さを70センチメートルとして計算すると7キロメートル程度、時間では1時間ほどになります。出退勤や昼食の行先、外部での会議などによって多少の違いはありますが、平均するとそんなところでしょうか。

 

江戸時代、一般的に、江戸から東海道を進んで京都に向かう場合、最初の宿泊地は程ヶ谷宿または戸塚宿でした。日本橋から程ヶ谷までは8里9町(約32.4キロメートル)、戸塚宿までが1018町(約41.2キロメートル)ですから、1日の行程はおよそ40キロメートルといったところでしょう。1日10時間歩いたと仮定して、時速は4キロメートル。成人男子ではもう少し速いかもしれません。

 

江戸日本橋から京都の三条大橋までの距離は126里6町1間(495.5キロメートル)で、通常は1415日で到着したといわれています。そうすると、1日当りの平均歩行距離は3335キロメートル、歩行時間は8~9時間になり、前述の過程とほぼ同じ結果になります。

 

『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛と喜多八の2人が江戸を出て最初に泊まったのは戸塚宿で、2日目は小田原宿、3日目が箱根宿です。戸塚宿から小田原宿までは39.5キロメートル、多少のアップダウンはありますが、比較的平坦な道が続きます。一方、小田原から箱根までは16.6キロメートルと距離は短いのですが、ご存知の通り急勾配の上りの坂道が続きます。当然、このような場合には、歩行速度が遅くなり、歩く距離も短くなります。

 

民謡「お江戸日本橋」の出だしで、「お江戸日本橋七ツ立ち...」という歌詞があります。「七ツ」とは「暁七ツ」、すなわち午前3時頃ですが、「七ツ立ち」はそれよりも半時(1時間)ほど遅い「七ツ半(午前4時頃)」に日本橋を発っていたものと思われます。夜が明ける半時前が「明六ツ(午前5時頃)」ですから、夜明け前に出発し、夕方日が暮れる前に次の宿に着くようにしていました。朝早く出発するのは、夏の暑い盛りには、午前中の涼しい時間帯に距離を稼いでおき、日中の暑い時間帯は休憩を取るようにしていたのではないかと思います。一方、江戸時代は不定時法を採用していたため、日中の時間帯が物理的に短い冬では、なるべく長い時間歩くようにしていたものと思われます。

 

ここから江戸時代の人々の歩いた1日当りの歩数を計算してみたいと思います。1分当たり150歩として計算すると、1時間で9,000歩、8時間では72,000歩、9時間では81,000歩となります。もちろん、これは旅に出た場合なので、日常の歩数はこれよりもずっと少なくなります。出退勤や外出、行楽などすべて徒歩によるものですから、旅の際の3分の1程度と見積もり、1日当たり25,000歩から30,000近くは歩いたものと思われます。私の2~3倍は歩いていたのでしょう。

 

こうしてみると、江戸時代の人々は現代人に比べてかなりの健脚だったことが分かります。江戸時代の道路は今のような舗装道路ではなく、土で固めた道だったので、脚にとっては少し楽だったかもしれませんが、それでも旅に出た場合に8~9時間歩き続けるというのは並大抵のことではありません。しかも履物は草鞋です。

 

彼らがこれだけ歩くことができたのは、「歩き方」に大きな違いがあるとの研究結果があります。草鞋や草履を履いていた頃の日本人は、地面に踵をしっかりとつけた歩き方をしていたのに対し、現代の日本人は靴を履くことでつま先に圧力をかけるようになり、歩き方が大きく変わったというのです。本当のところはよく分かりませんが、理に適った説ではあると思います。

 

高見澤

 

 

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年8月 5日 11:13に書いたブログ記事です。

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