東藝術倶楽部瓦版 20190819:画期的な迂回ルートで江戸湾に-「東廻り航路」

 

おはようございます。久しぶりの瓦版です。会員の皆様は如何お過ごしでしたでしょうか?瓦版はお休みをいただいたものの、私は休みも取らず、9月9日からの日本経済界の訪中代表団派遣に向けた準備に追われる日々でした。この忙しさは9月下旬まで続きます。このお盆休みの間に、あおり運転で暴行事件を起こした男と、それをかくまったとして交際相手の女が逮捕されるニュースがトップで流れていましたが、このような輩が高級外車を乗り回し、堂々と公道を走れる世の中の不条理と日本人全体の民度の低下に驚かされます。日本人としての、そして人間としての尊厳を自覚して生きていきたいものです。

 

さて、本日は江戸時代の日本の海路の一つであった「東廻り航路」について紹介したいと思います。東廻り航路を開拓したのは、御用商人として名を馳せていた河村瑞賢です。伊勢国の貧農に生まれた瑞賢は、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」の際に信濃国木曽福島の木材を買占め、土木・建築で大きな利益を上げ、それ以降幕府の公共事業に係っていくことになります。

 

当時、全国各地の幕府直轄地で収穫された年貢米を、将軍の御膝元である江戸まで手間と費用とかけずにどう輸送するかが大きな課題となっていました。奥州から江戸へ輸送する廻米については、東廻り航路が開拓される前は、本州沿いの海運を利用し、危険な犬吠埼沖の通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて、内川江戸廻りの航路を使って江戸に運んでいました。

 

このルートでは、積み換えの手間と時間、コストがかかることから、江戸幕府は瑞賢に東北地方の廻米を直接江戸に運ぶルートの開拓を命じます。そして瑞賢は、寛文11年(1671年)に東廻りの航路を開拓し、翌寛文12年(1672年)に本州を逆廻りする「西廻り航路」を開拓しました。西廻り航路については、次回詳しく紹介したいと思います。

 

瑞賢が最初に開拓した東廻り航路は、阿武隈川河口の荒浜(宮城県仙台市)から太平洋を本州沿いに南下し、銚子より房総半島を迂回して相模国三崎から伊豆半島の下田に入り、西南の風を待って江戸湾に入港するルートです。その後、江戸時代後期には、西廻り航路の起点であった出羽国の酒田(山形県酒田市)から日本海を北上し、秋田、青森、津軽海峡を越えて太平洋に出るルートが整備され、日本海側と江戸を直接結ぶ航路がつながりました。

 

この航路が整備される以前にも、盛岡藩、仙台藩、米沢藩の蔵米が三陸諸港や石巻湊、荒浜などから恒常的に輸送されていたほか、弘前藩による青森港の整備、秋田藩による土崎港の整備が進み、津軽海峡を経由した廻米が行われていましたが、いずれも断片的なもので、銚子で積み換える必要がありました。そうした意味で、瑞賢が開拓した伊豆下田から迂回する方法は、画期的な船舶のルートであり、西廻り航路の開拓にもつながっていったのです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年8月19日 13:52に書いたブログ記事です。

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