東藝術倶楽部瓦版 20190820:東北日本海側の荷を大量、安価、安全に-「西廻り航路」

 

おはようございます。最近、マスコミも含めよく日中経済関係の現状や今後の見通しについて見解を求められることが多くなりました。その多くは、米中貿易戦争と香港でのデモによる中国経済への影響で、対中ビジネスを展開する中で日系企業がどう対応していくべきかについての見解です。米中貿易戦争は、単なる貿易収支の問題ではなく、ハイテクによる米中両国の国家安全保障の問題が根底にあり、政治・軍事に関わることから、経済的観点だけで結論は出せません。また、香港問題は中国の内政に関わる問題で、将来的に台湾統一にも大きな影響が出かねないことから、こちらも安易な解決方法を選択するわけにもいかず、当面は成り行きをみるしかない状況です。中国をはじめとする新興国の台頭、情報通信技術の発展、グローバル化の進展など、地球規模での社会情勢の大変化が起きている中で、誰もがその対応に苦慮している状態です。

 

さて、本日は前回の「東廻り航路」に続いて、「西廻り航路」について紹介したいと思います。西廻り航路は、寛文11年(1671年)の東廻り航路の開拓に続いて、翌寛文12年(1672年)に河村瑞賢が整備した長距離の輸送ルートです。

 

その航路は、出羽国酒田(山形県酒田市)から日本海を南下し、佐渡、能登を経て下関(山口県下関市)から瀬戸内海に入り、瀬戸内海を通って「天下の台所」大坂に向かうルートです。出羽国最上郡の天領米は、最上川を下り酒田に集められていました。その後、大坂から紀伊半島をぐるりと回って江戸湾へと続いていました。江戸湾へは、東廻りルートと同様に伊豆半島の下田から、西南の風を待って入港していました。

 

この西廻り航路が整備される以前の日本海側の物資は、先ずは敦賀(福井県敦賀市)に集められ、敦賀港で船から積み荷を降ろし、その荷物を馬などに積み替えて陸路で琵琶湖まで運び、琵琶湖から小型船に積み替え、淀川経由で大坂に運んでいました。このため、積み替えに係る労力と時間、費用がかなり掛かる仕組みになっていました。

 

瑞賢による西廻り航路の整備によって、距離は大幅に伸びたものの、積み替えなしで一度に多くの荷物が運ぶことができるということで、コストも格段に低減することができたのです。しかもこの西廻り航路は、東廻り航路よりも安全なルートとして盛んに利用されていました。西廻りが東廻りより多く利用された理由として、日本海側は古くから航路が発達していて経済力のある良港が多く整備されていたこと、特に冬の季節以外は潮が安定していて航行がしやすく、波の穏やかな瀬戸内海を利用していたこと、天下の台所である大坂等の大商業都市とつながっていたことなどが挙げられます。この西廻り航路で活躍したのが、「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれる商業形態で、これについては後日改めて紹介します。

 

一方、東廻り航路は距離的に西廻り航路よりも江戸に近かったにもかかわらず、北に向かって流れる黒潮に逆らって南下する航海や津軽海峡や房総半島沖など難所があり、航海そのものが危険であったこと、江戸に米を送るだけで帰りの荷が少なく利益性が乏しかったこと、江戸より北には経済的に発展した港町が少なかったことなどがデメリットとして作用していました。

 

この西廻り航路が盛んに利用されることで、西日本の各地の港湾整備は大きく進められ、日本の物流は大きく発展する時代を迎えることになりました。しかし、その一方で敦賀や琵琶湖畔の港町は衰退することになり、荷の積み替えや輸送に携わる農民や町人の働き口が大きく減少し、庶民の生活を苦しめる結果にもつながってしまいました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年8月20日 08:28に書いたブログ記事です。

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