東藝術倶楽部瓦版 20190821:船主自らが買付て荷を運ぶ-「北前船」

 

おはようございます。昨日の雨の影響からか、比較的涼しい朝を迎えています。連日の暑さのなか、9月の経済界の大型訪中団の準備などで外出が続いており、今日も午後から外出予定です。雨も予想されているので、今朝の涼しさが続いて欲しいところですが、日中は33℃まで上がるとの予報で、蒸し暑さが気になります。

 

さて、本日は前回の「西廻り航路」で活躍した「北前船(きたまえぶね)」について紹介したいと思います。北前船は、江戸時代から明治時代中期にかけて、日本海海運で活躍した「買積み」の北国廻船のことを指します。買積みとは、他人の商品を運んで運賃を稼ぐ船ではなく、船主が自ら商品を買い入れ、他の地へ運んで売りさばき、その差額を設ける仕組みのことです。つまり、北前船はこうした「商業形態」を指す名称というわけです。

 

西廻り航路が開拓される以前、日本海沿岸の品物は敦賀から琵琶湖を経て大津、京都、大坂方面に陸路、水路を積み換えて運ばれていたことは前回説明した通りです。しかし、西廻り航路開拓前に、日本海沿岸の物資を下関廻りで大坂に運んでいた人がいました。加賀前田家三代当主の前田利常です。当時、加賀藩では「改作法」により米生産が奨励され、藩米収入を増やす政策がとられていました。寛永16年(1639年)、藩米を現金化するため、利常は兵庫の旧家・北風家(きたかぜけ)の助けを受けて下関廻りで藩米100石を大坂に廻送しました。これがきっかけとなり、西廻り航路の開拓につながっていくのですが、同時に北前船が登場するきっかけにもなったのです。

 

北前船の商業形態に最初に乗り出したのは「近江商人」です。近江国(滋賀県)で生まれ育ちながら、わざわざ他国へ出向いて商売しようという開拓者精神に富んでいたのが彼らです。近江商人は、後に北海道松前藩と一緒になって蝦夷地を開拓、藩の財政を一手に握るようになります。当時、松前では米がとれなかったものの、にしんや昆布などの海産物が獲れたので、近江商人はそうした海産物を大坂など大都市に送り、逆に大坂方面から衣料品や日用品、食品などを仕入れて北海道方面に送ってそれぞれ販売する往復取引によって繁栄したのです。

 

その後、幕末から明治初期にかけては、「加越能(加賀、越中、能登)」商人と呼ばれる北陸地域の新興勢力が北前船の運営に乗り出してきます。もともと彼らは近江商人に雇われていた船頭だったのですが、独立して船主となり勢力を増して多大な利益と文化を各地にもたらす役割を果たしていきます。

 

北前船の運行は、毎年春の彼岸頃(3月下旬)に上方の荷を載せ大坂を出帆、瀬戸内各所の港に寄港してから下関を廻り日本海沿岸を北上、北海道へと向かいます。江差、松前、函館などの港に入港(5月下旬頃)し積荷を売りさばきます。その後5~6月に獲れるにしんの〆粕などを仕入れて、夏のうちに北海道を出航し、台風期の前に瀬戸内海に入り、晩秋から初冬に大坂に帰着するという行程です。北前船は、通常は年1回の航行が常識でした。

 

北前船でよく使われていたのが「千石船」、「弁財船」と呼ばれる船です。千石船は、文字通り1,000石、つまり150トンの荷物を積むことができる船です。特に日本海は波が荒いことから、船首の形状や船体の強度に対する工夫が必要で、長距離用に乗組員が少なく帆走能力に優れた船の開発が必要になりました。そこで登場したのが弁財船で、これが幕末以降主流になりました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年8月21日 11:54に書いたブログ記事です。

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