おはようございます。今日の東京も昨日と同様に比較的涼しい朝を迎えています。とはいえ、昨日も日中は蒸し暑さが酷かったように、今日もまた汗ばむことが予想されます。中国では気温が40℃を超えると職場が休みになったり、賃金を余計に払わなければならなくなったりなど、生産活動や生活に影響が出てくることから、実際に40℃を超えていたとしても、気象当局は39℃と発表しているという話も聞きます。真偽のほどは分かりませんが、あり得ない話ではありません。
さて、本日は「菱垣廻船(ひがきかいせん)」について紹介したいと思います。菱垣廻船とは、江戸時代に大坂などの上方と消費地である江戸とを結んだ貨物船のことを指します。「菱垣(ひがき)」とは、舷側(船縁)を高くするための構造物である「垣立(かきだつ)」の一部に菱型の格子状の木枠を組み込んだ装飾品のことです。
諸大名による外国との勝手な通商を大きく制限した江戸幕府は、慶長14年(1608年)に西国の諸大名に対して500石以上の軍船の建造を禁じ、これが民間の船舶にも及び、家光の時代には帆柱一本の和船が一般的になります。とはいえ、社会の安定とともに国内物流が大きく発展すると、幕府も商船の大型化は認めざるを得ず、中には1,000石を超える船も建造されるようになりました。菱垣廻船として使われる船は、いずれも「弁財船(べざいせん)」と呼ばれる大和型和船が使われていましたが、これについては後日説明したいと思います。
菱垣廻船の誕生は江戸時代の初期、元和5年(1619年)まで遡ります。和泉国堺の船問屋が、その年に紀伊国富田浦から250石積みの廻船(貨物船)を借り受け、大坂から木綿、油、綿、酒、酢、醤油などの商品を積み込んで江戸に送ります。これが発端となって、廻船としての定期航路への道が開け、多種多様な日常の物資が大坂から江戸に盛んに運ばれるようになりました。これが菱垣廻船の始まりです。
寛永元年(1624年)、大坂北浜の泉屋平右衛門(泉屋平衡門)が江戸積船問屋を開き、菱垣廻船問屋が成立します。続く寛永4年(1627年)には毛馬屋、富田屋、大津屋、荒屋傾屋、塩屋の5軒が開店して「大坂菱垣廻船問屋」が成立、ここに菱垣廻船の運航が独立した業態として確立しました。廻船問屋は、自ら手船を所有する場合もありましたが、多くの場合は紀伊国や大坂周辺で廻船を雇い入れて営業していました。
元禄7年(1694年)、大坂屋伊兵衛という商人が中心となって菱垣廻船の持ち主・船主が協議して「江戸十組問屋」が結成されます。これによって持ち主・船主がバラバラであったそれぞれの船は、江戸十組問屋の共同所有となり、メンテナンスも共同で行われるようになったのです。もちろん、海難時の処理や喫水の確認、積載量の制限・管理も共同で行われていました。
菱垣廻船の運航には、前回紹介した西廻り航路の開拓とも関係しますが、航路整備や港湾整備が大きく係ってきます。河村瑞賢が行った海運改革では、諸設備の整備や船舶の運航管理をそれまでの商人請負方式から幕府直轄方式に変え、各拠点に安全管理施設を設置、諸侯や代官に船舶保護を命じるとともに、海難事故への対応にも当らせました。これによって、開運コストが大きく低減したことは言うまでもありません。
この菱垣廻船から、後に「樽廻船(たるかいせん)」が分かれていきますが、これについては次回紹介したいと思います。
高見澤