東藝術倶楽部瓦版 20180518:江戸幕府の最高裁判所-「評定所」

 

おはようございます。朝から暑い日差しが身に沁みます。少し歩いただけでも全身から汗がにじみ出てきます。そういえば、西城秀樹が63歳の若さで亡くなりましたね。野口五郎、郷ひろみとともに新御三家などと呼ばれ、一世を風靡した歌手で、実は『七次元よりの使者』の愛読者でもあったと聞いています。最近、老いも若きも亡くなる芸能人・有名人の多さが気になるところです。

 

さて、江戸幕府役職の大名役の説明が一通り終わったところで、本日からは「旗本役」の役職についてお話ししていきたいと思います。旗本役については、その役職の数が多すぎるので、主なものに絞って説明していきます。

 

旗本役で最も重要な役目を果たしていたものの一つが「江戸町奉行」です。この江戸町奉行と、先に大名役で説明した寺社奉行、そして後日説明する「勘定奉行」を合わせて「三奉行」と呼び、江戸幕府の最高司法決裁機関である「評定所」を形成していました。ということで、本日は、先ずこの評定所について解説していきたいと思います。

 

評定所は、元々鎌倉幕府の下では嘉禄元年(1225)年に創設された評定衆(執権の下で政務を合議で司る有力御家人から成る組織)の会議所を指し、執権や連署列席の下に立法・行政・司法上の重要事項を審理、決裁していました。建長元年(1249年)に評定所の下で裁判の審理にあたる機関として「引付衆(ひきつけしゅう)」が設置されます。室町幕府でもこの体制が踏襲されています。

 

江戸幕府において、この評定所が制度的に整備されたのは3代将軍・家光時代、寛永12年(1635年)ですが、2代将軍・秀忠の頃からこの仕組みがあったとも考えられています。評定所の構成メンバーは、寺社奉行4人、町奉行2人、公事方(司法担当)の勘定奉行2人から成る「評定所一座」と老中1名でしたが、これに「大目付」、「目付」が審理に加わり、実際の実務は勘定組頭など三奉行所から派遣される「評定所留役(ひょうじょうしょとめやく)」が行っていました。

 

評定所において審理されるのは、幕政の重要事項、大名や旗本に係る訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題(原告と被告で身分や所轄が違う場合等)などで、時には政策の立案や審議、老中への司法上の諮問に応えることもありました。このため、審理される問題によっては大目付、目付、側用人などの将軍の側近が臨席したほか、江戸出府中の所司代、遠国奉行が参列することもありました。ただ評議権は評定所一座しかなく、議決は多数決、決着がつかない場合はそれぞれの意見を書いて老中の採決に委ねられました。

 

評定にかかる事件としては、「出入物(でいりもの)」と呼ばれる民事訴訟では原告と被告を管轄する奉行が異なる場合、「詮議物(せんぎもの)」と呼ばれる刑事訴訟では重要事件と上級武士が被疑者である場合です。

 

寛文年間(1661年~1673年)の4代将軍・家綱の時代、「寄合(よりあい)」と呼ばれる評定は、「式日(しきじつ)」、「立合(たちあい)」、「内座寄合(ないざよりあい)」に分かれていました。このうち内座寄合は奉行宅で行われる三奉行による協議で、評定所の範囲に入れられないこともあります。式日は幕政の重要事項の諮問を行う日で、毎月2、1121日に行われ、老中、大目付、目付、側用人も出席〔享保5年(1720年)以降、老中は月一度に〕、立会は裁判が行われる日で、毎月4、1325日に行われ、側用人、在府中の京都所司代、大坂城代、遠国奉行などが列席することがありました。

 

江戸幕府の評定所は、江戸城和田倉門外の辰ノ口(竜ノ口)、現在の千代田区丸の内1-4-1、丸の内永楽ビルの場所にありました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年5月18日 10:45に書いたブログ記事です。

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