東藝術倶楽部瓦版 20180521:大江戸八百八町の行政と治安維持を担う「町奉行」

 

おはようございます。先週の暑さに対し週末はかなり気温が低下、そして今週はまた気温が上がるという気温の乱高下。この異常な状態はいつまで続くのでしょうか? そして今夏は猛暑か冷夏か? 野菜は一時期に比べ大分安くなりましたが、今後の食料品の価格も気になるところです。

 

さて、本日は「町奉行」についてお話ししてきたいと思います。町奉行とは、江戸を含む江戸幕府直轄下の主要都市に置かれていた老中支配の行政官のことですが、単に町奉行といった場合には、一般的には江戸の町奉行、通称「江戸町奉行」のことを指しています。前回の評定所のところでも少し紹介しましたが、寺社奉行、勘定奉行とともに「三奉行」と呼ばれ、評定所一座の構成員として、幕政に参加する中央官職の性格も合わせもっていました。

 

江戸町奉行の定員は、時代とともに若干の変化はありますが、制度が確立してからは2名、江戸の約20%を占める町地(武家地、寺社地を除く地域)と江戸町民の行政、司法、警察、消防のほか、府内の土木工事など、あらゆる役割を担っていました。町奉行所は、今でいえば東京都庁、地方・高等裁判所、地方・高等検察庁、警視庁、東京消防庁などの機能を兼ねていたといえます。大江戸八百八町の行政と治安維持を担う重要な役所であったわけです。町奉行の職務は相当な激務のため、在職中の死亡率は他の役職に比べて格段に高かったようです。

 

天正18年(1590年)の徳川家康の江戸入府以来、家康の家臣の板倉勝重や彦坂元正らが江戸の「御代官」として町方の支配を担当、同時に村方の支配も兼ねていました。慶長6年(1601年)、2代将軍・秀忠の側近である青山忠成(あおやまただしげ)と内藤清成(ないとうきよしげ)が町方支配を担当しますが、こちらも「関東総奉行」と呼ばれた広域行政官でした。江戸の町方支配の専門行政官、江戸町奉行が正式に設置されるのは寛永8年(1631年)の加々爪忠澄(かがづめただすみ)と堀直之である説、寛永15年(1638年)の酒井忠知(さかいただとも)と寛永17年(1640年)の神尾元勝とする説の二つが有力です。

 

職制確立後の定員は2名ですが、元禄15年(1702年)から享保4年(1719年)の17年間は3名となった時期がありました。江戸町奉行の職には、原則として旗本が就くことになっていましたが、時には万石以上の大名格の者が就くこともありました。役料は、寛文6年(1666年)頃は1,000俵であったものが、享保8年(1723年)には役高3,000石となり、幕末の慶応3年(1867年)には役金2,500両となります。名奉行として有名なところでは、享保2年(1717年)から元文元年(1736年)まで南町奉行を務めた「大岡越前守忠相」、天保11年(1840年)から天保14年(1843年)まで北町奉行と弘化2年(1845年)から嘉永5年(1852年)まで南町奉行を務めた「遠山左衛門尉景元」がいます。テレビの時代劇でもお馴染みですね。

 

寛永8年に幕府が町奉行所を建てるまでは、町奉行に任じられた者がその邸宅に白州を作って職務にあたっていました。奉行所が出来てからは、町奉行の役宅は奉行所内に置かれるようになります。町奉行所は、町人からは「御番所(ごばんしょ)」、或いは「御役所」と呼ばれ、「南町奉行所(南番所)」と「北町奉行所(北番所)」の2カ所が置かれていました。町奉行が3名の時には、それに加えて「中町奉行所」が南北両奉行所の補完的役割として置かれていました。南町奉行所、北町奉行所、更には中町奉行所は火事による類焼などで移転し、時には南北の名称が逆転することもありましたが、最終的には南町奉行所は数寄屋橋門内(有楽町駅中央口付近)、北町奉行所は呉服橋門内(東京駅八重洲北口付近)に置かれました。

 

当初、町奉行の管轄する江戸市中の範囲は曖昧でしたが、文化15年(1818年)に江戸の範囲が「朱引」(赤い線)で正式に定められると、同時に「墨引」(黒い線)で町奉行の管轄範囲も示されました。町奉行所の執務は、民事訴訟については南町と北町が月番交代制で行い、非番の月には表門は閉ざされていました。しかし、月番の時に受理した継続案件や内寄合(ないよりあい)と呼ばれる相互協議、更に一方、奉行が職権で行う刑事事件の処理などは月番に限らず常に行われていました。一方、商業に係ることは南北で窓口が分かれており、呉服・木綿・薬種問屋の案件は南町、書物・酒・廻船・木材問屋の案件は北町といったように異なる業種を受け持っていました。

〔墨引(黒い線)が江戸町奉行の管轄範囲とされた〕

 

町奉行所には、南北各奉行所にそれぞれ与力(足軽大将等の中級武士)25名、同心(下級武士)100名がついていました。当時、南北合わせて250名程度で町人人口50万の行政や治安維持・防災を担うということは、現在のシステムから考えれば想像もできないほどの少人数であったことが分かります。特に犯罪捜査などの警察業務にあたる「三廻(さんまわり)」は、南北それぞれ「定廻(じょうまわり)」6名、「隠密廻(おんみつまわり)」6名、「臨時廻(りんじまわり)」2名と、南北合わせて28名と非常に少ない人数で江戸の治安維持にあたっていたというのですから驚きです。三廻1人で約18,000人という数になります。ちなみに、今の東京都1,270万人に対して警察官の数は4,300人ほどですから、警察官1人で約300人という計算になります。このため、定廻は自腹で「目明し(岡っ引き)」を雇っていたほか、放火や盗賊については武官の先手組が加役の火付盗賊改方として取り締まりに当たっていました。臨時廻は定廻の補佐、隠密廻は奉行直属の偵察役です。この三廻は同心のみで構成されていました。

 

町奉行所の組織には、警察業務を担当する三廻のほか、奉行の秘書役である「内与力(町奉行直接の家臣)」、人事・出納・奉行所全体の管理を担当する「年番方(与力の筆頭役)」、訴訟の審理や刑の執行を行う「吟味方」、小石川養生所の管理を行う「養生所見廻」、伝馬町牢屋敷の取り締まりを行う「牢屋敷見廻」、橋の維持・管理を行う「定橋掛(じょうばしがかり)」、町会所(まちかいしょ)の事務管理を行う「町会所見廻」、防火のために河岸の荷の監視する「高積改(たかつみあらため)」、町火消の消火活動を指揮する「町火消人足改」などがあり、いずれも与力-同心で体制が組まれていました。町奉行所については、別の機会に詳細に説明してみたいと思います。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年5月21日 16:21に書いたブログ記事です。

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