おはようございます。週末もあっという間に過ぎ、また新たな一週間が始まりました。これまでの無理が祟ったのか、あまり体調がすぐれず、ついウトウトっとしてしまうことが多いこの頃です。最近、車の運転はほとんど息子に任せているので、運転の機会はなくなりましたが、一昨日の土曜日に、娘の歯医者の見送りをするために、久しぶりにハンドルを握りました。何十年と運転してきましたが、それなりに緊張感をもついい機会になったかと思います。
さて、本日は「各自火消(かくじびけし)」について紹介したいと思います。明暦の大火がきっかけとなって、江戸市中の消防体制が整備されるようになったことは、前回の方角火消のところで紹介した通りですが、武家火消として幕府直轄の旗本を中心に編成された消防隊「定火消(じょうびけし)」が設置されたのは、明暦の大火の翌年、万治元年(1658年)のことです。この定火消については、すでに幕府の役職で詳しく説明(瓦版20180801)しているので、本シリーズでは省略します。
各自火消とは、諸大名がそれぞれ自身で組織した消防隊のことを指します。各自火消もまた大名火消の一つで、諸大名は、それぞれの大名屋敷や近辺で火災が発生した際に、あくまでも自らの大名屋敷を火災から守るために組織したもので、比較的早い時期から存在していたと思われます。
天和元年(1681年)、幕府から各大名に対して、近所で火災が発生した場合に、家来に消火にあたるよう指示が出されます。これが享保2年(1717年)に、各大名の近隣火災に対する消火活動への参加が義務付けられることになりました。このため、こうした火消のことを「近所火消(きんじょびけし)」とも呼ばれていました。近所火消は、各大名の上屋敷のほか、中屋敷や下屋敷からも消火活動への出動が命じられています。この定められた出動範囲により、「三町火消」、「五町火消」、「八町火消」などの別称もあったようです。また、縁戚の屋敷や菩提寺など、近隣の範囲を越えて消火に駆けつける場合には、「見舞火消(みまいびけし)」とも呼ばれていました。
各自火消の中で特に有名なのが、加賀前田藩が組織した「加賀鳶(かがとび)」です。加賀鳶は3組から成り、その派手な装束と比類なき働きぶりで評価されていたものの、あまりの威勢の激しさに喧嘩になることも少なくなく、別称「喧嘩鳶」とも呼ばれていました。
旗本に対しては、享保7年(1722年)に、「飛火防組合(とびひふせぎくみあい)」として65組が編制され、組合内での火災の際に出動するよう命じられていました。
以上みてきたように、江戸の消防体制については、明暦の大火とともに、実は8代将軍・吉宗によって行われた享保の改革の際にも、所々火消や方角火消の再編が行われるなど整備が進んだことが分かります。また、この頃の大岡忠相が主導して制度化された「町火消」など、町人による消防組織が次第に江戸の消火活動に大きな役割を担っていくことになります。
高見澤