おはようございます。北方領土返還に向けた日ロ交渉が動き始めました。アセアン首脳会議出席のためシンガポールを訪れている安倍首相がロシアのプーチン大統領と会談しました。1956年の日ソ共同宣言に基づいて、歯舞群島と色丹島の2島返還を軸にした交渉になるのか、或いは国後島、択捉島も含めた4島返還を前提にするのか、年明けとされる安倍首相のロシア訪問が気になるところです。
さて、本日は、「方角火消(ほうがくびけし)」について紹介したいと思います。この方角火消も大名火消の一つで、担当区域を分けて消火に当たることになっていたものです。
江戸幕府によって、重要地に配された所々火消や火元に近い大名が担当した大名火消が制度的に設置された江戸の武家火消でしたが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で江戸城天守が焼失し、江戸市中で最大10万7,000人の犠牲者を出したことから、従来の火消制度では、まったく対応できないことが痛感されられました。このため、幕府はこの明暦の大火以降、きちっとした形で消防制度の確立に努めるようになります。
先ずは、明暦の大火で焼失した江戸市中を再建する際、大名や旗本の屋敷、更には寺社の一部を江戸の郊外に移転させて、延焼を防ぐための「火除地」を設け、また耐火建築として瓦葺屋根や土蔵造りを奨励するなどして、火災に強い町づくりを目指しました。
その一方で、新たな消防体制を構築していきます。明暦の大火以降、幕府によって最初に設置されたのが方角火消です。明暦の大火直後に、先ずは大名12名が選ばれ、桜田筋、山手筋、下谷筋の3組の火消役が編制されます。江戸市中で火事が発生すると、地域担当の大名が現場に駆けつけて消火に当たることになっていました。
これが元禄年間(1688年~1704年)になると、東西南北の4組に改編され、この頃から方角火消と呼ばれるようになりました。その後、正徳2年(1712年)に5方角5組となり、享保元年(1716年)には大手組、桜田組の2組になりました。
大手組、桜田組には、それぞれ4名、計8名の大名があてられました。火事の際には、それぞれ大手門、桜田門に集結し、消防活動の主な目的は江戸城への延焼防止で、江戸城内の火災の際には、老中の指示を受けてから出動していました。一般的に、この方角火消は消火活動の主力ではなく、火元から離れた場所で防火するのが役目だったので、「防大名(ふせだいみょう)」とも呼ばれていました。
方角火消は、参勤交代で江戸に滞在中の大名から選ばれ、屋敷には通常より高い火の見櫓の建築が許されていたようです。方角火消の定員は、任命された大名の石高によって異なり、1万石以上では騎馬3~4騎、足軽20人、中間・人足30人。10万石以上では騎馬10騎、足軽80人、中間・人足140~150人。20万石以上となると、騎馬15~20騎、足軽120~130人、中間・人足250~300人とされていました。
高見澤