東藝術倶楽部瓦版 20181115:奉書火消を制度化-「大名火消」

 

おはようございます。東京に住むようになって特に感じるのは、人々にまったくと言っていいほど、マナーや配慮といったものがないことです。街や駅を歩いているときでも、周りのことを一切気に掛けることもなく、平気でぶつかってくる輩の何と多いことか。昨日驚いたのは、地下鉄の電車に乗った途端、後から乗客が乗って来るにもかかわらず、一人のオバサンがドアの入り口のところで大き目なズタ袋をドカッと床に置いて、大きく広げて何かを探している様子。その異常さと言ったら空前絶後!それが一人、二人ではありません。東京の9割がそんなのばかり...と感じてしまうほど常時目にする状況です。

 

さて、本日は、「大名火消(だいみょうびけし)」について紹介したいと思います。前回紹介した所々火消は、この大名火消に数えられますが、大名火消が形と成立するのは所々火消が設置された後のことです。

 

寛永18年1月29日(1641年3月10日)、京橋桶町から出火した火災は、烈風により延焼が拡大し、97の町と123カ所の武家屋敷を焼失し、死者400人以上、さらに消火の陣頭指揮にあたっていた大目付の加賀爪忠澄(かがつめ ただすみ)が煙にまかれて殉職、所々火消に任じられていた陸奥国相馬藩主の相馬義胤(そうまよしたね)が消火活動中に落馬して重傷を負うなど、大きな被害を出しました。この火事を通称「桶町火事」と呼んでいます。

 

この桶町火事をきっかけに、幕府は制度的な消防体制を検討し、桶町火事の2年後の寛永20年(1643年)に、大名による新たな火消役を設けることになります。これが大名火消といわれる体制です。

 

大名火消は、6万石以下の大名から16家を選び、それを4組に編制、1万石当たり30人ずつの定員420人を1組として、1組は10日交代で消火活動を行うといものです。火災が発生すると、火元に近い大名が出動し、大名自らが指揮をとって、武家地・町人地の区別なく消火活動を行いました。この制度は、奉書火消を制度化したものとされ、大火の場合には従来通り老中から奉書を送り、正式に招集して消化活動にあたらせていました。この制度化された大名火消をそれまでの奉書火消と区別して「増火消(ましびけし)」と呼んでいました。

 

こうして制度化された大名火消ですが、火災の際には大名自ら出陣することから、華麗な火事装束に身を包んだ家臣に隊列を組ませ、現場まで行進して消火活動にあたるようになり、その装束も次第に派手になっていったと言われています。このような状態ですから、どこまで真剣な消火活動が行えたのかは疑問が残るところです。とはいえ、江戸幕府が市中の防火防災・消防の制度化に取り組み始めたことは、町造り、都市化に向けた制度整備の一環として称賛すべきことだと思います。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年11月15日 10:09に書いたブログ記事です。

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