おはようございます。日が昇るのも随分と遅くなり、日が暮れるのも大分早くなりました。冬至に向けて日がだんだんと短くなっていくのを、身体で感じる今日この頃です。江戸の暦でも紹介したように、江戸時代は季節によって物理的な時間の長さが異なっていました。これはこれで、合理的な考え方だったのかもしれません。季節や人々の体調に合わせて概念を変えていくことも、時には必要だと思います。
さて、本日は「所々火消(しょしょびけし、ところどころびけし)」について紹介したいと思います。この所々火消もまた武家火消の一つで、大名火消に分類されます。
寛永16年(1639年)、江戸城内本丸が火災に見舞われたました。それをきっかけに、江戸城内にある紅葉山霊廟に対する消防役を、譜代大名の下総生実(おゆみ)藩二代藩主・森川重政に命じたことが所々火消の始まりといわれています。
所々火消は、各大名にそれぞれの担当する場所が定められていたことからその名前が付けられたものでした。江戸幕府にとって、重要な場所を火災から守るために設けられた初めての専門の火消役といえるでしょう。
元禄年間(1688年~1704年)に、所々火消が定められた場所が増え、江戸城各所をはじめ寛永寺や増上寺等の寺社、両国橋や永代橋等の橋梁、本所御米蔵等の蔵を36名の大名が担当するようになりました。その後、享保7年(1722年)に第8代将軍の徳川吉宗が重要地として11カ所を定め、それぞれ大名1名に担当させる方式に改編しました。その11カ所は以下の通りです。
江戸城内5カ所:紅葉山霊廟、大手方、桜田方、二の丸、吹上
城外の蔵3カ所:浅草御米蔵、本所御米蔵、本所猿江材木蔵
寺社3カ所:上野寛永寺、芝増上寺、湯島聖堂
江戸城内の5カ所は譜代大名が所々火消として命じられ、江戸城外の蔵などの施設は外様大名が受け持っていました。
高見澤