東藝術倶楽部瓦版 20181105:駄菓子も売っていた町の番人-「木戸番」

 

おはようございます。いよいよ明日(米国時間)に迫った米大統領の中間選挙、共和党、民主党共に最後の熱戦を繰り返しているところですが、米国民によるトランプ大統領への支持は根強いものがあるように思えます。最近、「Q Anon」を名乗る陰謀論者の主張が全米で話題となり、トランプ支持層の間で広がりをみせているようです。こうした現象が一体何を意味しているのか、世界を大きく変える流れになるのかもしれません。

 

さて、前回、自身番について紹介したので、本日は、そのついでに「木戸番」について説明しておきたいと思います。江戸市中の自治機能として、町年寄、町名主、自身番が組織的に町奉行所の所属下に置かれていたのに対し、木戸番はそのような位置づけではありませんでした。とはいえ、町人地の自治機能の一つですから、当然江戸町奉行の管轄下にあったのは間違いありません。

 

木戸番は、自身番と同じように町ごとに設置された「木戸」の番人のことを指します。江戸のみならず、江戸や大坂など大都市の町々には木戸が設けられていました。江戸においては、木戸の脇には番小屋があり、「番太郎」、「番太」と呼ばれる木戸番が2人、その番小屋に居住していました。木戸番は、老人が多かったようです。

 

番小屋の大きさは梁間6尺(約182センチメートル)、桁行(けたゆき)9尺(約273センチメートル)、軒高1丈(約3メートル)で、棟高はこれに相応する高さと定められていました。

 

木戸番の役割は、その木戸の管理と町内の治安維持、防災などでした。木戸は、町と町の境目の道路に設置された中央2間半(3メートル弱)の木の扉で、昼間は開けてあって、人々は町から町への出入りが自由にできましたが、毎日夜の四ツ時(午後10時ごろ)から朝六ツ時(午前6時頃)までの夜間は閉じられていました。これは、犯罪者の逃亡防止や打ちこわしなどの他地域への波及の食い止めなど、江戸市中の治安維持に大きな役割を果たしました。この木戸が江戸の町に設置されたのは、明暦4年(1658年)のことで、当初は夜九ツ時(午前零時)以後の往来を監視していたようです。

 

四ツ時以降、通行人が木戸を通る用事がある場合、木戸番に改められた上で、木戸の左右にある潜り戸から通る決まりになっていて、その際、木戸番は必ず拍子木を打って、その次の木戸番に通行人がいることを知らせました。これを「送り拍子木」といいます。拍子木は通行する人の人数分を打ち鳴らすことが慣わしでした。

 

木戸番の報酬は、それぞれの町内から支払われていました。晦日ごとに、1軒につき20文から100文の銭を家主が集め、その月の月行事(がちぎょうじ、月ごとの幹事役)が集計してその中から支給されていました。とはいえ、その報酬は微々たるものであったことから、番屋で駄菓子、蝋燭、荒物(日用雑貨)、金魚(夏)、焼き芋(冬)などを売って副収入を得ていました。このため、木戸番屋は「商い番屋」とも呼ばれていたそうです。

 

高見澤

2018年11月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年11月 5日 09:01に書いたブログ記事です。

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