東藝術倶楽部瓦版 20181130:気性の激しい鳶人足-「いろは四十八組」

 

おはようございます。昨日は急遽お休みをもらうことになり、瓦版も休刊とさせていただきました。前回、香港空港でのロストバゲージについてお話ししましたが、その後、香港空港よりスーツケースが見付かったとの連絡があり、昨日午前9時過ぎに自宅に届きました。スーツケース自体に破損なく、中のモノも揃っていました。それにしても、原因や経緯など詳細が知りたいところです。

 

さて、本日は前回の町火消に関連して、「いろは四十八組」について紹介したいと思います。享保3年(1718年)に、南町奉行であった大岡忠相が町火消設置令を出し、享保5年(1720年)に「いろは四十七組」と、深川・本所に16組の町火消が設けられ、その後、いろは四十七組に「本組」が加わっていろは四十八組になったことは、前回説明した通りです。

 

このいろは四十八組は、「い組」、「ろ組」などと、いろは文字をそれぞれの町の町火消の組名としたものです。いろは文字のうち、「へ」は「屁」に通じることから「百」に、「ら」は「摩羅」に通じることから「千」に、「ひ」は「火」に通じることから「万」に、「ん」は「終わり」に通じることから「本」の文字にそれぞれ置き換えられました。

 

 

この町火消の主役は、前回紹介した通り「鳶人足」です。鳶人足は、平時は遊惰に時を過ごし、時には粗暴なふるまいをしたり、任侠風を吹かしたりなど、一種独特な気風を醸し出していました。そのため、火事場のみならず、火事場以外でも喧嘩が絶えなかったようです。

 

当時、火事が発生すると、各組の火消が火事場に向かいます。最初に到着した組の火消が、自分の組の名前を書いた「消札(けしふだ)」と呼ばれる木札を火事場の近所の軒先に掲げ、纏持を屋根に登らせて集合の合図の目印とし、どの組が活動しているかを世間に知らしめていました。なぜならば、この消札が消火に対する褒美を受ける時の証拠になっていたからです。

 

ところが、後から駆け付けた者が自分の組の札と勝手に差し替えたり、纏持を無理やり屋根から引きずり降ろして火事場での活動を乗っ取ろうとしたりしたため、肝心の消火活動そっちのけで、喧嘩が発生することも少なくなかったようです。こうした火消人足同士による消火活動時の巧妙争いを「消口争い(けしくちあらそい)」と呼んでいました。

 

火事とは無関係な争いとして、文久2年(1805年)に芝神宮境内で行われていた勧進相撲の見物で鳶人足の入場を巡って始まった「め組の喧嘩」が有名です。力士十数人とめ組の火消人足100人以上が喧嘩となり、最終的には寺社奉行、町奉行、勘定奉行をも巻き込む大騒ぎとなりました。この話は後に芝居にもなりました。鳶人足の気性の激しさを表す事件でした。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年11月30日 07:20に書いたブログ記事です。

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