東藝術倶楽部瓦版 20181206:髪結い床が橋の防火を預かる-「橋火消」

 

おはようございます。この間の日曜日から酷い腰痛に悩まされ、月曜日は休暇をとり、火曜日は少し遅めに出勤、そして昨日は免許証更新のため休みをとっていました。そのため、瓦版がお送りできなく恐縮です。月曜日に比べれは少し楽になったものの、まだ痛みは続き、立ち上がるのに一苦労です。溜まった疲れがここにきて症状として腰痛に出たのではないかと思われます。何度か経験しましたが、腰の痛みはつらいです。

 

さて、本日は「橋火消(はしびけし)」について紹介したいと思います。この橋火消も町人によって組織された町火消の一つです。

 

江戸時代、理髪業に従事する人のことを「髪結い(かみゆい)」と呼んでおり、その髪結いの仕事場を「髪結い床(かみゆいどこ)」と称し、特に男の髪を手掛ける髪結いで自分の髪結い床を構える人のことを「床屋」と呼んでいました。この髪結い床の多くは橋台(きょうだい)に髪結い床を構えており、比較的粗末な造りであったことから、火事の際には飛び火の危険性が高かったようです。

 

そのため、江戸幕府は髪結いたちに店を撤去するか、地代を徴収して橋の防火対策の費用に充てるかの検討を行っていたところ、髪結いたちは、自分たちの手で消火道具を揃え、橋の防火をしたいと申し出ます。当時、南町奉行であった大岡忠相はこの申し出を承認、享保7年(1722年)に髪結い床による橋火消が成立しました。

 

一方、店の近くに橋がない山の手の髪結い床は、火事が発生した場合には南北の町奉行所に駆けつけることが義務付けられました。

 

享保20年(1735年)に、各橋の防火は町火消が担当することになり、橋火消は消滅します。以降、髪結い床の職人は火災が発生するとすべて町奉行所に駆けつけることになりました。その後、天保13年(1842年)には、天保の改革に伴って髪結い床組合が解散し、火災の際の町奉行所への駆けつけは各町の名主たちに命じられることになりました。

 

高見澤

 

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年12月 6日 09:34に書いたブログ記事です。

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