東藝術倶楽部瓦版 20181210:消火体制は武家火消主体から町火消主体へ-「江戸の火消の変遷」

 

おはようございます。先週金曜日は、早朝からホテルニューオータニで朝食会を兼ねた会合があり、それに出席していたため、瓦版をお送りすることができませんでした。今週水曜日12日にも朝食懇談会が同じくホテルニューオータニで開催されることから、瓦版もお休みさせていただきます。年末も押し迫り、忘年会など会合が増えていきます。来週は出張もあり、年末年始も何かと仕事に追われそうです。

 

さて、本日はこれまで紹介してきた「江戸の火消の変遷」をまとめる形で説明してみたいと思います。江戸時代初期の火消は、武家、町人共に火災が起きた時の自衛組織であり、素人の集まりによる消防でした。

 

消防体制が江戸幕府によって最初に制度化されたのは、大名による武家火消で、これはあくまでも江戸城と武家屋敷を対象に消防が行われており、町人地は相変わらず町人の自衛組織による消防が行われていました。この町人地をも対象として消防活動が行われるようになったのが、明暦の大火をきっかけに、万治元年(1658年)に制度化された幕府直轄の定火消です。

 

しかし、度重なる江戸市中の火事と、その復興に伴う財政負担の大きさに耐えかねた8代将軍・徳川吉宗は、享保の改革の一環として町人主体の町火消を設置することになります。これ以降幕末にかけて、江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へとシフトしていきます。

 

享保3年(1718年)に設置された町火消は、享保5年(1720年)にいろは組47組及び本所深川16組として整備が進みます。設置当初、町火消の出動範囲は町人地に限定され、武家地への出動は行っていませんでした。しかし、この頃から町人地に隣接する武家地で火災が発生し、消し止められそうにない場合は消火活動が行われるようになりました。享保7年(1722年)には、2町(約218メートル)以内の武家屋敷での火事の際には消火活動が命じられ、各地の米蔵、金座、神社、橋梁等の重要地の消防も町火消が行うようになります。そして延享4年(1747年)の江戸城二の丸火災では、初めて町火消が江戸城内まで出動して消火活動を行うことになりました。

 

一方、武家火消の一つである方角火消は、元文元年(1736年)以降、江戸城風上の火事か大火の場合以外は出動しないことになり、文政2年(1819年)には、定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定されてしまいます。このため、郭外は武家地、町人地に関係なく町火消が消火活動を行うことになりました。

 

江戸城での町火消による消火活動としては、天保9年(1838年)の西の丸火災、天保15年(1844年)の本丸火災などがあり、いずれも町火消が目覚ましい活躍をみせたことにより、幕府から褒美が賜われたとされています。

 

安政2年(1855年)になると、定火消が10組から2組削減されて8組となり、文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止、所々火消も担当箇所が11カ所から3カ所へと大幅に削減されました。また、慶応2年(1866年)には定火消が8組から半減して4組に、翌慶応3年(1867年)には1組128人のみが定火消として残されました。こうして幕末の江戸市中の消火活動は、町火消に完全に依存するようになったのです。

 

明治元年(1868年)に武家火消はすべて廃止、江戸城の消防担当として兵部省に所属する火災防衛隊が設けられ(翌年廃止)、市中の消火活動は町火消のみとなり、やがて現在の消防団へとつながっていくのです。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2018年12月10日 09:25に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20181206:髪結い床が橋の防火を預かる-「橋火消」」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20181211:発見から消火まで-「江戸時代の消火道具」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ