東藝術倶楽部瓦版 20190930:【江戸の乗り物その23】海川両用の大型廻船-「五大力船」

 

おはようございます。今日で9月も終わり、明日から10月です。今年も残すところ3カ月となったわけですが、庶民にとってやはり気になるところは明日からの消費税増税に伴う生活や仕事に対する影響でしょう。単純に考えれば、生活費が2%アップというところでしょう。しかし、家計のやりくりなど出費を抑える工夫をすることで生活費自体を切り詰める方向に進むでしょうから、純粋な経済自体は縮小せざるを得ません。国の財政が非常に厳しい中で、増税という措置は分からないわけではありませんが、これが正しい選択かという疑問は残ります。日本経済の更なる疲弊が進まないよう祈るだけです。

 

さて、本日は河川舟運で使われていた大型の「五大力船(ごだいりきせん、ごだいりきぶね)」について紹介しようと思います。五大力船とは、江戸時代から昭和初期にかけて、関東近辺の海運に用いられた海川両用の廻船のことを指します。

 

五大力船の用途は、江戸を中心に武蔵、伊豆、安房、上総、下総の海辺などで穀物や干鰯(ほしか)、薪炭等の物資を輸送したほか、旅客の輸送にも使われていました。なかでも、特に江戸日本橋本船町の河岸と上総国木更津村との間で貨客輸送を行っていた船は「木更津船(きさらづぶね)」と呼ばれていました。

 

五大力船の構造は、基本的には海船造りですが、船体の幅を狭く、喫水を浅くして河川をも航行できるようにしていました。小型のものは全長31尺(9.4メートル)、幅8尺(2.4メートル)、積載重量は50石(7.5トン)で、大型のものは全長64尺(19.4メートル)、幅17尺(5.2メートル)、積載重量は500石(75トン)にもなりました。

 

海から直接河川に入り、市中の河岸に横付けすることができたので、他の廻船のように港の沖に停泊して、「瀬取船(せどりぶね)」で荷役する必要はありませんでした。海では帆を立てて帆走し、河川では棹が使えるよう舷側に長い棹走りが設置されていました。

 

五大力船の名称は、「五大力菩薩」に由来するとの説が有力です。五大力菩薩は、三宝と国土を守護するとされる大力を持つ5人の菩薩です。すなわち、中央の「金剛吼(こんごうく)」、南方の「竜王吼(りゅうおうく)」、東方の「無畏十力吼(むいじゅうりきく)」、北方の「雷電吼(らいでんく)」、そして西方の「無量力吼(むりょうりきく)」のことです。五大力菩薩については、改めて紹介する機会を設けたいと思います。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年9月30日 09:08に書いたブログ記事です。

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