東藝術倶楽部瓦版 20191001:【江戸の乗り物その24】大坂冬の陣での活躍から生まれた「木更津船」

 

おはようございます。今日は10月1日、中国では建国70周年を祝う軍事パレードが北京の天安門広場の前を通る長安街で盛大に行われる予定です。1949年の建国当時、習近平国家主席をはじめとする現在の国家指導者層は誰も生まれてはいません。「眠れる獅子」と呼ばれた清朝帝国でしたが、西洋列強によって侵略・蹂躙を受け、中国国内は大混乱。日本もその片棒を担いだ歴史は、いまだに日中関係に深い傷跡を残しています。その混乱した中国を何とかまとめ上げ、紆余曲折を経ながら経済大国へと導いたのが中国共産党というわけです。一党独裁による政権や人権問題、少数民族弾圧など何かと問題視される中国ですが、広大な中国を統治することは並大抵のことでは成し得ません。それぞれの歴史的経緯や伝統・文化、人々の考え方、国情など全体を理解しない限り、安易に批判することは正しい行為とは言えません。

 

さて、本日は「木更津船(きさらづぶね)」について紹介しようと思います。木更津船は、上総国(千葉県中部)木更津と江戸を往復した小廻しの廻船のことです。木更津船で使われたのが、前回の瓦版で紹介した海船・川船折衷型の「五大力船」で、弁才船と比べて細長く喫水が浅いのが特徴でした。瀬取りの必要もなく、江戸湾内水運の主力船として活躍していました。

 

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で木更津の水夫たちが徳川水軍に協力して功を立てた報奨として、江戸と木更津間での渡船営業権や幕府の御用船として御城米廻送などの特権を与えられていました。取り扱った荷物は御城米のほか、商人米、薪炭などに加え、乗客も輸送の対象としていました。木更津船は、具体的に江戸本船町(東京都中央区日本橋)の河岸と木更津港を結ぶもので、この船の就航により、木更津が上総と安房の海上輸送の玄関口として栄えることになります。

 

木更津は、「津」の字からも分かるように、古くから港として開かれていた場所で、中世には房総から鎌倉に至る渡船場として栄えてきたと言われています。木更津海岸からは三浦半島や富士山も望むことができ、風光明媚な観光地、保養地としても知られていました。木更津船の最大の利点は、関所を通ることなく江戸と木更津の輸送を行うことができたという点です。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年10月 1日 21:59に書いたブログ記事です。

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