東藝術倶楽部瓦版 20190924:【江戸の乗り物その20】230年以上にわたる木造船-「天地丸」

 

おはようございます。ご無沙汰しておりました。久ぶりの瓦版です。先々週、経済界の大型訪中代表団で北京を訪れた後、週末を挟んで、今度は自動運転セミナーに参加するために再度北京を訪問しました。出張中はほとんど眠る暇もない日々が続き、週末も資料準備などで追われ、一昨日、昨日とようやく睡眠がとれたような状態でした。そうした中、新しい一週間が始まりました。今週も忙しくなりそうです。

 

さて、本日は前回ご紹介した「安宅丸」に代わる徳川将軍家の「御座船」となった「天地丸(てんちまる)」についてお話ししたいと思います。この天地丸は、安宅丸と異なり「関船」をベースに建造されたもので、安宅丸に比べその規模は小さなものでした。

 

これまでも度々出て、きた慶長14年(1609年)の「大船建造の禁」によって諸大名が大型軍船である安宅船を保有することができなくなり、関船が諸藩の水軍の主力になっていったことは、すでに先日の瓦版で説明した通りです。江戸幕府においても、御座船として利用していた安宅丸が実用的でなく維持費もばかにならないことから、建造からわずか48年で廃船、解体となったわけですが、それに代わる御座船として使用されたのが天地丸です。

 

この天地丸の建造にあたったのが、安宅丸の建造を手掛けた船手頭の向井忠勝(将監)です。3代将軍・徳川家光によって、安宅丸完成の4年前の寛永7年(1630年)6月に試乗が行われ、その性能の良さが評価されたとのことです。天地丸の構造は16反帆、小艪76挺立てで、上口長93尺(28.2メートル)、肩幅23.72尺(7.2メートル)、深さ6.3尺(1.9メートル)、500石積みの典型的な大型関船でした。推定排水量は約100トン、巡行速力は3.1ノット(毎時約5.7キロメートル)、最大速度は6.8ノット(毎時約12.6キロメートル)とみられています。

 

当時、幕府の艦船格納庫である「御船蔵(みふなくら)」が隅田川に面した沿いの本所・深川辺り(東京都江東区新大橋一丁目)にあったことから、隅田川の推進を考慮して浅い喫水の設計になっていました。上部構造は船体の全長にわたって屋根風の甲板が張られた総矢倉造りで、中央には2階建ての屋形がありましたが、通常の関船に設けられている船尾の艪矢倉はありませんでした。朱塗りに金メッキが施された豪華な造りになっていたようです。

 

天地丸は大規模な修繕を重ねながら、幕末に至るまで使用されていました。江戸時代後期には幕府が保有する最大の軍船でしたが、黒船来航以降は西洋式の幕府海軍の整備が行われるなかで、文政2年(1862年)に船手組は西洋式の軍艦組に編入され、天地丸をはじめとする関船や小早は全廃となります。天地丸はその後も船蔵で保管されますが、明治7年(1874年)に解体されることになりました。一般に木造船の寿命は長くとも20年といわれるなかで、230年以上にわたって使われた天地丸、江戸時代のメンテナンス技術の高さを伺い知ることができます。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年9月24日 07:43に書いたブログ記事です。

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