東藝術倶楽部瓦版 20191119:【江戸の川その14】瀬替えの後も氾濫の悩み-「荒川の瀬替え」

 

おはようございます。先日、東京で開かれた2019年東京モーターショーでは、数々の次世代自動車が展示されていたようです。私も日本自動車工業会(自工会:JAMA)から招待券を何枚かいただいたのですが、教育のために部下に渡してしまい、自分は行かずじまいでした。展示されていた車の中で、特に目を引いたのがボンネットやバックウインドなどボディーの一部を「木」を原料にした「セルロースナノファイバー」という素材であつらえた車です。木材をチップにしてセルロース(繊維)を取り出し、それを特殊な薬剤を使ってほぐし、ナノレベルで密度を上げることで、強度が鉄の5倍、軽さは5分の1になるという優れものです。車の軽さが燃費向上につながることは周知の通り。電動化だけが環境対策ではありません。日本古来の木の文化を継承する意味でも、この取り組みは重要だと思います。

 

さて、本日は「荒川の瀬替え(あらかわのせがえ)」ついて紹介しようと思います。荒川の瀬替えは「荒川の西遷(あらかわのせいせん)」とも呼ばれ、これもまた、江戸時代を代表する大きな土木工事の一つです。

 

荒川は「荒ぶる川」が語源とされるほど、大雨の後にはたびたび洪水が発生し、流域に大きな被害をもたらしてきたことは、すでに紹介した通りです。特に熊谷付近から下流は低湿地帯であったため、氾濫のたびに流路が変わるほどでした。今ではかなり消滅しているようですが、小針沼(こばりぬま)〔埼玉県行田市〕、笠原沼〔宮代町〕、小林沼〔菖蒲町〕、栢間沼(かやまぬま)〔久喜市〕、柴山沼〔白岡町〕などはいずれも荒川が氾濫してできた沼と言われています。

 

江戸時代以前は荒川が綾瀬川に流入して大きな被害が起きていたことから、慶長年(1596年~1615年)に、伊奈忠次が備前堤を築いて荒川から綾瀬川が切り離され、綾瀬川流域の水害防止や新田開発が進んだことは、これまでも瓦版で紹介してきました。しかし、この備前堤が逆に上流側に湛水被害をもたらすことになります。このため、上流側の村と下流側の村との間で堤防の高さに対する争いが起き、その調停のために「御定杭(おさだめくい)」が設けられるようになりました。

 

こうした中、寛永6年(1629年)に、伊奈忠治によって久下村(くげむら)〔埼玉県熊谷市〕で荒川を締切り、新たな荒川の河道を開削して、当時は入間川の支川であった和田吉野川及び市野川に荒川が導かれることになります。これ以降、入間川の流路が荒川の本流になり、ほぼ現在の河道を経て江戸湾に注ぐようになりました。これが荒川の瀬替えです。切り離された荒川の旧下流路は「元荒川」となって現在に至っています。

 

荒川流域の水害対策のために行った瀬替えですが、その一方で入間川、市野川、和田吉野川との合流付近では逆流による氾濫が頻繁に起きるようになります。このため、これら支川の付替工事を行うとともに、上流域では川島領大囲堤(おおいづつみ)〔埼玉県川島町〕や吉見領荒川大囲堤〔吉見町〕など各所に大囲堤を築造するなど、洪水に備えました。

 

利根川東遷事業も含め、こうした利根川や荒川の河道変更により、埼玉東南部から江戸近郊にかけての低湿地開発が可能となりました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年11月19日 12:04に書いたブログ記事です。

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