東藝術倶楽部瓦版 20181228:江戸の主な大火-「明暦の大火」その②

 

おはようございます。昨日は急遽お休みをいただき、大変失礼しました。今年も残すところあとわずか、少しは年の瀬らしくなった感じがしないわけでもありません。長いようで短かった1年、何かと波乱がありましたが、実り多き年でもありました。来年辺りからこれまでの努力の結果が現れ始めるのではないかと期待が高まっているところです。

 

さて、本日は「明暦の大火」その②として、諸説ある失火の原因について紹介したいと思います。

 

明暦の大火が、別名「振袖火事」と呼ばれていることは有名です。諸説ある失火原因の中で、庶民の間に最も広く信じられているもので、本郷丸山にある本妙寺の振袖供養の火が燃え広がったという説です。

 

明暦の大火の4年前の承応3年(1654年)3月、麻布の質屋・遠州屋彦右衛門の一人娘・梅乃が母に連れられて菩提寺である本妙寺に参詣したついでに、浅草観音に廻るつもりで上野山下を通り過ぎた際に、寺小姓風の美少年に一目ぼれしてしまいます。梅乃はその美少年のことが忘れられず、恋煩いの病でしょうか、食欲もなくなり寝込んでしまいます。両親はせめてもと、美少年が着ていた服と同じ荒磯と菊柄の振袖を作り梅乃に与えますが、翌承応4年〔明暦元年〕(1655年)1月16日に17歳の若さで亡くなってしまいました。

 

両親は葬礼にあたり、せめてもの供養にと娘の棺桶に形見の振袖をかけて弔いました。棺桶にかけられた振袖は、葬儀の後、寺男たちによって古着屋へと売り払われます。当時、こうした遺品を売った代金は、寺男たちの清めの酒代としてされていました。

 

さて、古着屋にわたったその振袖ですが、今度は上野の紙商・大松屋又蔵の娘・きののものとなります。ところが、きのもしばらくの後に病に倒れ、明暦2年(1656年)に17歳で亡くなります。葬儀は梅乃が亡くなった1月16日に本妙寺で行われ、再びその振袖が本妙寺に納められ、またしても売り払われます。

 

そして今度は、その振袖が本郷元町の麹商・喜右衛門の娘・いくのものとなります。いくもまた病によって翌明暦3年(1657年)に17歳で亡くなり、またもや、この振袖が1月16日に本妙寺に持ち込まれました。

 

3度も同じことが重なると、さすがに住職も古着屋に払い下げることをためらいます。そこで、亡くなった娘3人の親が施主となって、同年1月18日に本妙寺境内で大施餓鬼会(おおせがきえ)の法要を行い、振袖を火に投じて供養することにしました。

 

この日、住職が読経を始め、護摩の火の中に振袖を投じると、にわかに一陣の北風が起こりました。その風によって、火のついた振袖が人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、本堂をはじめ寺の軒先などに火が移り、次第に町へと燃え広がりました。

 

この振袖にまつわる失火原因説は伝説の域を出ず、誰がいつ頃言い出したのかもはっきりしていません。後に起こる「八百屋お七」の大火の影響もあり、何らかの話題性を添えたいという江戸庶民の心理だったのかもしれません。

 

我が職場も本日で仕事納め、明暦の大火の紹介も途中になってしまいましたが、瓦版もお休みさせていただき、年明けにその続きをお話ししたいと思います。新年は1月7日(月)から再開致します。皆様、よいお年をお迎えください。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年12月28日 07:34に書いたブログ記事です。

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