東藝術倶楽部瓦版 20160804 :江戸の料理革命ー江戸の朝炊き、京・大坂の昼炊き

 

おはようございます。

ここ二日ほど不安定な天気が続いた東京ですが、今朝は割と安定しているようです。

ですが、やはり夏です。暑いです。

 

現在、世界を見渡すと、ほとんどの国で1日3食が定着しています。朝食、昼食、夕食です。時には夜食なんて1日4食に食べる人もいるかと思いますが、カロリーの摂り過ぎには注意してくださいね。

日本において、1日3食が定着するようになったのは江戸時代以降だと言われています。平安中期以降、貴族の間では1日2食(朝食、夕食)が優雅、3食は野卑だとされていました。江戸時代に入り、1657年の明暦の大火をきっかけに、復興のために駆り出された人に対して、体力維持のために昼食を出すようになったという説があります。本当のところはよく分かりませんが、実際のところ元禄年間(16881704年)には既に1日3食が定着していたようです。

 

この時代、電気炊飯器なんてありませんから、炊いた米を暖かいまま保温しておくなんてことはできません。日本製の電気炊飯器は中国でも大人気で、「爆買い」の対象製品にもなったことは、皆さんも記憶に新しいところでしょう。

ところで、江戸時代に米を炊く時間が江戸と上方(京、大坂)で違っていたことはご存知でしょうか?「江戸の朝炊き、京・大坂の昼炊き」と言われるように、江戸では朝に米を炊いて、昼と夕は冷や飯、上方では昼に炊き、夕と翌朝が冷や飯でした。

 

羽釜で炊いた米をそのままにしておくと余熱で焦げ付いて取りにくくなるので、お櫃に移していました。お櫃は杉や檜の桶に蓋をつけたもので、炊きたてのご飯をその中に入れておくと、少しの間は保温でき、その間にお櫃が余分な水分を吸収してくれ、水分を吸った木肌がご飯の乾燥を防いでくれるので、パサパサの冷や飯にならずにすみます。これも昔の人たちの知恵です。

江戸では夕食は茶漬け、上方では朝食はお粥というのが一般的だったようです。江戸では、冬場に朝に食べ残した味噌汁に冷や飯を入れ、ネギやニラを加えて「おじや(上方では雑炊)」にして食べる人もいました。

 

江戸で朝炊きだったのは、昼飯に弁当を持参することが多かったからだと言われています。

江戸の街では、朝におかずとなる食材を売り歩く商売が盛んだったようです。味噌汁の具となるシジミ、アサリ、豆腐等や、納豆、漬物、煮物など種類は豊富でした。ですから、米さえ炊いておけば、朝食の準備に困ることはありませんでした。こんな商売が流行るもの、江戸の人々の暮らしが豊かだったからなのでしょうね。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年8月 4日 13:43に書いたブログ記事です。

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