東藝術倶楽部瓦版 20161116 :江戸式蒸し板と大坂式焼き板ー花見弁当定番の蒲鉾

 

おはようございます。先週末の暖かさとはうって変わり、今朝は風が冷たかった東京です。今週から来週にかけて、気温の変化が激しいとの予報ですので、体調管理にはご注意ください。

 

さて、本日は春の風物詩の一つである花見弁当に定番の「蒲鉾」についてご紹介したいと思います。

蒲鉾の起源をたどれば平安時代に至ります。平安時代の古文書『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』には、「永久3年(1115年)七月廿一日戌子、関白右大臣、東三條へ移御のときの祝宴の高坏の図」に「蒲鉾」が記されているほか、その他祝宴の献立の中にもしばしば「蒲鉾」の文字が登場してきます。平安時代には練り物が既に存在していたことが分かります。

 

しかし、この時代の蒲鉾は、室町時代中頃の書物『宗五大草紙(そうごおおぞうし)』(享禄元年:1528年)にも「かまぼこはなまず本也。蒲のほをにせたる物なり」と記してあるように、姿形が蒲の穂子に似ていることから、「蒲鉾」といわれるようになったようです。実際には、竹の串に摺った魚肉を貼り付けて焼いたものですが、これは今では「竹輪」といっています。嘉永元年(1848年)に出版された『近世事物考(きんせいじぶつこう)』(久松祐之著)には、「後に板に付けたるができてより、まぎらわしきにより元のかまぼこは竹輪と名付けたり」と記載されているように、この頃に蒲鉾と竹輪とが別々のものとして認識されるようになりました。

 

では、今の板付の蒲鉾はいつ頃できたのでしょうか。

江戸時代の戦記本『摂戦実録大全(せっせんじつろくたいぜん)』(宝暦2年:1752年)には、豊臣秀頼が大坂城へ帰る途中、伏見で梅春という料理人が「かまぼこ」を作って振るまったという話が載っており、そこには「板に付けてあぶる」という表現がされているので、安土桃山時代末期には「板付蒲鉾」がすでに存在していたことが分かります。また、

室町時代の写本『食物服用之巻(しょくもつふくようのまき)』(永正元年:1504年)には、「粥の事、かまぼこは右にてとりあげ、左へとりかえ、上ははし、中はゆび。下はいたともにきこしめす也。きそく(亀足)かけとて、板の置やうに口伝あり」と記されており、板付き蒲鉾の発祥は室町時代中期といえるかもしれません。

 

 安政6年(1859年)に書かれた『及瓜漫筆』には、「魚どもを取りよせ、大勢よりて、ひたとおろし、骨をさりて、大きな臼を二ツ三ツ立ならべて、おろしたる肉を入れ、杵をもってければ、即時にかまぼこになりけるを板につけ、庭の中に長く掘り、隅の火を卓散におこし、畳を左右に立ならべ、かまぼこを段々に指て炙り・・・」とあることから、当時は表面を焼いた「焼き蒲鉾」であったことが分かります。

 

今のような蒸した蒲鉾が登場するのは江戸時代末期のことになります。江戸時代の百科事典『守貞謾稿(守貞漫稿:もりさだまんこう、喜田川守貞著、天保8年起稿)』に「江戸にては焼て売ることなく、皆蒸したるのみを売る」と「蒸し蒲鉾」の記載がみられます。このことから、江戸では「焼き板」がすたれて「蒸し板」ばかりになったことが分かります。ですから、江戸の蒲鉾は食紅で色を付けない限りは白色が一般的です。一方、京・大坂では蒸してから更に焼くようになったので、焦げ目がつくのが普通です。このようにして、「江戸式蒸し板」、「大阪式焼き板」という現代の形が出来上がりました。また、「細工蒲鉾」といわれる「切り出し蒲鉾」や「模様入り蒲鉾」などが作られるようになったのも江戸時代末期だといわれています。

 

ちなみに蒲鉾の値段ですが、安いものでは1枚100文(2000円)、良いものでは200文(4000年)より高いものもあったそうで、今からすればかなり高価な食材であったことが分かります。

 

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年11月16日 09:18に書いたブログ記事です。

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