おはようございます。先週金曜日の夜遅くに上海から帰国しました。春節(旧正月)前とあって、飛行機の座席は中国人旅行客で満員状態。中国経済が減速しているとの統計データですが、まだまだ中国人の消費意欲は旺盛です。「モノ(物)」への拘りから「コト(事)」への拘りへと、社会・経済の発展に伴って人々の意識も高まっていくというのが、本来の宇宙の流れです。果たして日本は...?
さて、本日は享保年間中・後期の大火について紹介していきたいと思います。享保5年(1720年)1月13日、日本橋堺町(現在の日本橋人形町三丁目)から出火した火によって、江戸三座となっていた中村座と市村座が焼失しました。その火事が発生する前々日の11日に、南町奉行の大岡忠相が、飛び火を防ぎ、防火に努めるよう各町名主に訓示したばかりの出来事でした。
享保6年(1721年)3月4日、牛込御納戸町(現在の新宿区納戸町)から出火した火によって360余名の焼死者を出す大火が発生しました。被害者の数からいえば、前回紹介した小石川馬場火事より多いのですが、どういう訳か分かりませんが、一般的には小石川馬場火事の方が、享保年間を代表する大火として「江戸十大火事(後日詳述)」の一つに数えられています。
同年12月10日、今度は神田永富町(現在の千代田区内神田二・三丁目)、三河町(現在の千代田区内神田~司町)から出火した火事によって、またもや中村座、市村座が焼失してしまいました。
享保9年(1724年)1月30日、京橋加賀町(現在の中央区銀座の一部)から出火した火は、木挽町の森田座、さらには芝口御門(現在の銀座八丁目)を焼いてしましました。これ以降、芝口御門は再建されることなく廃止となりました。
享保10年(1725年)2月18日、麻布鳥居坂(港区六本木五丁目)より出火した火によって、品川まで焼失する大火が発生しました。焼死者や怪我人が多かったとの記録が残っています。
享保16年(1731年)4月15日、目白台(東京都文京区)から出火し、浜御殿付近まで延焼する火事が発生しました。被害は幅20町が3里(約12キロメートル)、死者は1,000人ほどでした。この火事は「目白台の火事」と呼ばれています。
享保の後の元文2年(1737年)5月3日、下谷相生町より出火します。この火事によって、上野寛永寺本坊などが焼失、下谷金杉(現在の東京都台東区)まで延焼しました。
高見澤