東藝術倶楽部瓦版 20190508:官道から参詣道へ-「大和の古道」

 

おはようございます。昨日のニューヨーク市場でのダウ平均株価が前日比で一時600ドル超の大幅下落となり、終値でも473ドル39セント安い25,965ドル9セントとなりました。昨日の東京市場でも日経平均株価が1カ月ぶりに2万2,000円を割る事態になっています。これは米国トランプ大統領が、急遽対中輸入関税の引き上げを発表し、米中貿易摩擦への懸念が再燃したことで、売り注文が出たことによるものということです。この事態を受け、中国の劉鶴副総理が明日から訪米するようですが、この米中対立がこの先どうなるのか、私の仕事と直結することもあり、気になるところです。

 

さて、本日は「大和の古道(やまとのこどう)」について紹介したいと思います。大和の古道とは、読んで字の如く、大和地方(現在の奈良県)を貫く古来からの街道です。これらの道は飛鳥・奈良時代にすでに作られていたものです。大和の古道には、主に次のような道があります。

 

「山辺の道(やまのべのみち)」

山辺の道は、奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の若草山に並んでいる春日山の麓まで、盆地の東端を山々の裾を縫うように南北を通る道です。『日本書紀』や『古事記』などの記録から、古墳時代の初期、4世紀頃にはすでに整備されていたと考えられ、現存する日本最古の道として知られています。

 

「上ツ道(かみつみち)」

上ツ道は、奈良盆地の中央より東側を南北に貫く三本の道のうち、最も東側を通る道です。この三本の道は、ほぼ4里(約2.12キロメートル)の等間隔に置かれており、東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれています。敷設時期は、『日本書紀』などの記録から7世紀半ば頃と推定されています。上ツ道は、今の桜井市から奈良盆地の東端の山沿いを北上して、天理市を経て奈良市中部の猿沢池に至るものです。南は桜井市仁王堂で横大路と交わり、その先は山田道を経て飛鳥に通じています。また天理市の櫟本(いちのもと)で「北の横大路」とも交わっています。当初は官道として使われていましたが、平安時代以降は仏教信仰の広まりとともに、寺院への参拝道として賑わうようになりました。江戸時代には、「上街道(かみかいどう)」と呼ばれ、伊勢街道の一つとして機能していました。

 

「中ツ道(なかつみち)」

中ツ道は、上ツ道と下ツ道の間を南北に平行に走る道です。橿原市の天香具山北麓から奈良市北之庄町に至る直線道で、南は藤原京(現在の橿原市)の東京極、北は平城京(現在の奈良市)の東京極となっていました。更に南は香具山を迂回して橘寺(たちばなでら)へ至ることから、江戸時代には「橘街道(たちばなかいどう)」と呼ばれていました。平安時代には吉野詣で賑わっていたようです。

 

「下ツ道(しもつみち)」

下ツ道は、藤原京の西京極から奈良盆地の中央部を北上し、平城京の朱雀大路となる道です。道幅は、道の両側にある側溝の中心間で22.7メートルとなっています。起点は見瀬山古墳の前面、藤原京の西四坊大路(橿原市八木辺り)から奈良盆地の中央を真っ直ぐ北に進みます。北は那羅山(ならやま、平城山)の平坂(ならさか)を越えて山背道(やましろのみち)になり、南は軽(かる、橿原市大軽町)の丸山古墳(旧見瀬丸山古墳)までが直線路で、檜隈(ひのくま、檜前、現在の明日香村)からは西南に向かう巨勢道(こせじ、現在の奈良県御所市古瀬に向かう道)となり、宇智(うち、現在の奈良県五條市)を経て紀伊国との境にある真土山を越えると、紀の川沿いの木道(きのみち)に達します。奈良時代には飛鳥・藤原京と平城京を繋ぐ大道として盛んに利用されていましたが、平安京遷都後は次第に衰退していきます。江戸時代以降、奈良から櫟本、丹波を経て桜井に至る道が「上街道」、郡山から高田に至る道が「下街道」と呼ばれていたのに対し、その間を通る下ツ道は「中街道」と呼ばれるようになりました。中世以降、中街道は奈良の西から八木(橿原市)、古瀬(御所市)を経て北宇智(五条市)を下街道と合流する道筋となります。

 

「横大路(よこおおじ)」

横大路は、奈良盆地を東西に貫く古代からの道です。奈良盆地の南部の藤原京付近を通っていた道と、法隆寺付近から現在の天理市櫟本付近までを通る道があり、通常は前者を指し、後者は「北の横大路」と呼ばれています。前者の横大路は、桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山付近まで真っ直ぐ東西に伸びており、難波京と飛鳥京を結ぶ官道として整備された街道です。この道は、東は伊勢街道(伊勢本街道)、初瀬街道につながり伊勢国に、西は竹内街道につながり和泉国に至ります。江戸時代には、伊勢神宮への参詣道として賑わっていました。

これに対し北の横大路は、斑鳩町の法隆寺付近から天理市の櫟本まで真っ直ぐ東西に通じる道で、西側で竜田越奈良街道(たつたごえならかいどう)につながります。平安時代初期の歌人、在原業平が大和国と河内国を行き来した際にこの道を通ったことから、別名「業平道(なりひらみち)」とも呼ばれています。

 

「筋違道(すじかいみち)」

筋違道は、斑鳩の法隆寺付近から飛鳥宮(明日香)へほぼ一直線に結んでいたとされる官道です。北北西から南南東方向に、南北に約20度傾いて設置されていたことから筋違道、或いは「斜行道(しゃこうどう)」と呼ばれていました。また、聖徳太子が行き来したとも言われ、「太子道」という呼び方もされています。大和の古道の他の東西南北に通る道が飛鳥時代後期に計画的に整備されたものであるのに対し、筋違道はその沿線上に弥生時代や古墳時代にかけての遺跡が多数発見されていることから、そのころには部分的に既に道があり、飛鳥時代に他の大道とともに延長・整備し直したものと考えられています。この街道も他の道と同様に、平安京遷都後は官道としての役割は衰退し、道幅は狭く直線的ではなくなりました。そして、やがて「法隆寺街道」とも呼ばれるようになりました。

 

高見澤

2021年1月

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このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2019年5月 8日 08:00に書いたブログ記事です。

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