東藝術倶楽部瓦版 20190507:伊勢参宮大神宮にもちょっと寄り-「伊勢三宮街道」、「伊勢路」

 

おはようございます。令和最初の瓦版をお送りします。10連休の方もいるかと思いますが、この連休はどのように過ごされましたか? 私はといえば、仕事があった関係で、29日に江ノ島海岸の散策とランチ、5日に人形町界隈の散策とスカイツリー近くでのディナーを家族で過ごしただけで、残りは家でパソコン・資料とにらめっこの日々でした。江ノ島では、中国国歌の「義勇軍行進曲」の作曲者・聶耳(じょうじ、Nie Er)が江ノ島・鵠沼(くげぬま)海岸で遊泳中に帰らぬ人となったということで、それを悼んで碑が建てられています。ちょっとした散策でしたが、新たな発見などもあり、それなりに楽しめました。

 

さて、これまで五街道とそれに通じる主な脇街道を紹介してきました。本日から暫くの間は、その他の主要な脇街道について紹介していきたいと思います。本日は、伊勢神宮に通じる信仰の道、「伊勢参宮街道(いせさんぐうかいどう)」と「伊勢路(いせじ)」について説明したいと思います。

 

川柳にも「伊勢参宮大神宮にもちょっと寄り」とあるように、江戸時代の庶民にとって長旅は一生に一度あるかないかの物見遊山の旅で、お伊勢参りを名目に伊勢神宮にはちょこっと顔を出すだけで、できるだけ多くの場所を散策しようということだったのでしょう。ですから、各地から伊勢に向かう街道が整備されていたのは、いうまでもありません。

 

先ずは伊勢参宮街道です。この街道は、日本の各方面から伊勢神宮への参拝道として整備された街道です。「伊勢街道」、「伊勢本街道」、「参宮街道」とも呼ばれる街道です。

 

東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の「間の宿(あいのしゅく、宿泊が禁止されていた休憩場所)」である「日永(ひなが)の追分」で東海道から分岐し、白子、津、六軒、松阪、斎宮を通って伊勢に至る街道は、一般に伊勢街道と呼ばれています。その距離は18里(約72キロメートル)、江戸幕府によって脇街道として整備された街道です。

 

大坂の玉造稲荷神社(大阪市中央区)を起点として、暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)、上ツ道(かみつみち)、初瀬街道を経て六軒で伊勢街道に合流する道があります。大坂玉造稲荷から伊勢神宮内宮までの距離は42里半(約170キロメートル)で、暗越奈良街道は生駒山脈の南側、標高455メートルの暗峠(くらがりとうげ)を越えて大坂と奈良を最短距離の8里8町(約34キロメートル)で結ぶ古くからの道です。豊臣時代に整備され、江戸時代には旅人や物資が行き交う大動脈でした。奈良からは南にまっすぐ伸びる上ツ道(上街道)を通り、箸墓(はしはか)古墳、三輪大神(みわおおみや)を経て初瀬街道に入ります。その後、奈良桜井の長谷寺門前から初瀬街道と分かれ、大宇陀(宇陀市)経由で通って伊勢本街道に入って青山峠などいくつかの峠を越える山道で、六軒(松阪市)で伊勢街道に合流します。参宮街道とも呼ばれています。

 

伊勢参宮街道が各地から伊勢神宮に至る道であるのに対し、伊勢路は伊勢国の伊勢神宮と南紀の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の二大聖地を結ぶ街道で、「熊野参詣道」であり、いわゆる「熊野古道」の一つです。伊勢神宮から熊野速玉大社まで42里半(約170キロメートル)、「伊勢へ七度、熊野へ三度」といわれるように古くから信仰の路、祈りの路として利用され、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』にも登場してきます。熊野三山へは、紀伊路など和歌山県側の古道が貴族に多く利用されてきたのに対し、伊勢路は主に庶民が利用する道でした。

 

志摩磯部地域から伊勢市に通じる「磯部街道」、鳥羽市から伊勢市中村町に通じる「鳥羽街道」を伊勢路と呼ぶこともあるようです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年5月 7日 10:54に書いたブログ記事です。

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