東藝術倶楽部瓦版 20190517:山陰と山陽を結ぶ中国地方の脇街道

 

おはようございます。昨日は急用で瓦版の更新ができず、失礼しました。新年度事業も準備期間が過ぎ、いよいよ本格的に動き出し、私としてもますます忙しくなりそうです。来週火曜日21日からは北京出張、再来週水曜日29日からは東北宮城県仙台出張、来月10日からは再度北京出張と目まぐるしい勢いで外での活動が増えてきます。今日も朝から中国政府・国務院参事室一行の表敬を受け、午後は経済産業省での会議と、日中両政府絡みの事業が続きます。

さて、本日は中国地方のその他の脇街道について紹介してみたいと思います。畿内と中国地方を結ぶ大きな街道として西国街道(山陽道)と山陰道について紹介したところですが、この西国街道と山陰道を結ぶ重要なルートがいくつかあるので、ここで主なものを紹介しておきましょう。

 

先ずは「因幡街道」です。因幡街道は、播磨国(兵庫県南西部)姫路と因幡国(鳥取県東部)鳥取を結ぶ道のことで、主に二つのルートがありました。その一つは鳥取から智頭(ちずかい)を経て使戸坂峠(しどざかとうげ)を越えて山陽道に至る「智頭街道(智頭往来)」です。このルートは鳥取藩の参勤交代にも使われ「上方往来」とも呼ばれていました。もう一つのルートは鳥取から若桜(わかさ)を経て戸倉峠を越えて姫路に至る「若桜街道(若桜往来)」です。この道は因幡国八東(はっとう)地域を通ることから「八東往来」とも呼ばれていました。

 

次は「出雲街道」です。出雲街道は播磨国姫路と出雲国(島根県東部)松江を結ぶ街道で、「出雲往来」、「雲州(うんしゅう)街道」とも呼ばれています。姫路から三日月宿(兵庫県佐用町)、津山宿(岡山県津山市)、美甘宿(岡山県真庭市)、二部宿・溝口宿(鳥取県伯耆町)を経て米子宿(鳥取県米子市)を通って松江に至ります。出雲大社への参詣や出雲からの上洛の道として昔から利用されていました。松江藩松平氏の参勤交代にも使われました。出雲街道としては、これとは別に「石見銀山街道」の備後国尾道(広島県尾道市)から出雲、石見、備後の3国の国境にある赤名(島根県飯南町)までのルートや、これに備後国三次(みよし)〔広島県三次市〕で接続する広島方面のルートを出雲街道と呼ぶこともあるそうです。

 

続いて「石見銀山街道」です。石見銀山街道は、石見銀山のある石見国(島根県西部)大森(島根県大田市)から日本海側の鞆ヶ浦(ともがうら)、或いは温泉津(ゆのつ)の沖泊(おきどまり)までと、瀬戸内側の尾道、或いはその途中の備後国宇賀(三次市)で分岐して備後国笠岡(岡山県笠岡市)まで、石見銀山で採掘された銀を輸送することを目的として整備されました。鞆ヶ浦までの道を「鞆ヶ浦道」、沖泊までの道を「温泉津沖泊道」、尾道までを「尾道道」、笠岡までを「笠岡道」とそれぞれ呼んでいました。日本海側へのルートは、江戸時代以前にもあり銀の運び出しに利用されていましたが、冬の日本海は季節風が強く、銀を運び出す船の運行に支障が出ていたことから、江戸時代以降、江戸幕府は石見銀山を直轄領とし、瀬戸内側への街道が整備され、尾道や笠岡が銀の積出港として重要な役割を果たすようになりました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年5月17日 09:16に書いたブログ記事です。

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