おはようございます。関東もいよいよ梅雨に入り、自然界もいよいよ夏に向けた装いとなっています。
紫陽花が色付き、草木も緑が濃くなってきています。
さて、これまでは中国の水に関わるお話を紹介してきましたが、これからは東藝術本来の姿として、いよいよ江戸の水について勉強していかなければと思っています。
そこで本日からは、江戸の上水道についてご紹介したいと思います。
ご存知の通り、江戸は百万都市として世界最大規模の人口を有し、人口が増加するとともに都市が拡大、十分な飲料水や生活用水の確保が急務となっていました。もともと湿地帯であった江戸の東南部は、井戸水には大分塩分が含まれていたようで、上水道建設が必要だったのです。
天正18年(1590年)、徳川家康が江戸に入府した際に小石川上水が開設されたのが、江戸の上水の起源とされています。この小石川上水は、その後発展・拡張して神田上水となり、明治時代にその役割を終えるまで、江戸住民の暮らしを支えてきました。
江戸時代には、この神田上水のほか、玉川上水、本所上水(亀有上水)、青山上水、三田上水(三田用水)、千川上水のいわゆる「江戸の六上水」がありましたが、享保7年(1722年)に神田と玉川以外の4上水は廃止され、江戸時代を通じて利用されていたのは主に神田と玉川の2上水だったのです。
江戸時代には電気もなければポンプもありません。標高の高低差を利用して水を流していくわけですが、石や木で造られた「石樋」や「木樋」と呼ばれる水道管によって上水井戸に運ばれ、人々はそこから水をくみ上げて利用するようになっていました。
その技術について、追々勉強していきたいと思いますが、なかなかのものであったようです。
次回以降も、引き続き江戸の上水道についてご紹介していければと思います。
高見澤