おはようございます。
今朝の東京は、昨日の天気から一転して小雨が降っています。湿度が高くジメジメしていますが、いよいよ夏到来の予感がしています。しかし、関東の6都県の水源となっている8つのダムの貯水率が低下し、例年の6割程度に落ち込んでいるとのことで、夏に向けて水不足が心配されるところです。
さて、今日はいよいよ江戸庶民の生活に欠かすことのできなかった「玉川上水」に焦点を当ててみようと思います。
神田上水が整備されたことで、江戸の北東部(神田、日本橋、京橋)の生活が便利になったことは、昨日お話ししたとおりです。
3代将軍・徳川家光〔在職期間:元和9(1623)~慶安4年(1651年)〕のときに参勤交代の制度が確立し、大名やその家族、家臣までが江戸に住むようになると、江戸の人口は急激に増加しました。人口増加に伴い、既存の上水施設だけでは足りなくなり、江戸幕府は新たな上水の確保に迫られるようになりました。
家光が死去した翌年・承応元年(1652年)に、幕府は水量の豊富な多摩川の水を江戸に引き入れる壮大な計画を立てました。
実際の工事としては、承応2年(1653年)4月に着工、わずか8か月後の同年11月に羽村取水口から四谷大木戸までの素掘りによる水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩やかな勾配です。羽村からいくつかの段丘をはい上がるようにして武蔵野台地の稜線に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達するという、自然流下方式による導水路です。羽村から四谷までは開渠でした。翌年の承応3年(1654年)6月には、虎の門まで地下に石樋、木樋による配水管を敷設(基幹部分は石樋、大名屋敷や長屋には木樋、一部竹樋が敷設されていた)して暗渠になります。これにより、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯にまで水が供給できるようになりました。
明暦3年(1657年)1月に起きた「明暦の大火」後、拡大した江戸の水需要の増加に応えるため、玉川上水から青山、三田、千川の3つの上水が分水されます。玉川上水は武蔵野台地の尾根を流しているので分水が可能でした。ただ、これらの分水された上水は享保7年(1722年)に突然廃止されます。分水された上水については、日を改めて紹介したいと思います。
この玉川上水も神田上水と同じように明治に入ってからも使われますが、文明開化による衛生面の問題もあって、明治34年(1901年)に、神田上水とともに廃止されることになります。
高見澤