おはようございます。今朝の東京は雨、それもかなり大粒の雨が降っています。しばらくはこの状態が続くようです。
それにしても、世界各地でいやな事件が起きていますね。米国フロリダ州では銃の乱射事件があり、50名の人が亡くなったとか。上海では浦東空港で爆発騒ぎがありましたが、怪我人が出ただけで死者はいなかったようです。世界と距離が縮まっていますので、日本も否応無しに巻き込まれないとも限りません。これまで以上に気を引き締めていくことが大事です。
さて、ここ数回にわたり、江戸の上水道、それも特に六上水についてお話ししてきましたが、実は考古学的な発掘調査によれば、例えば市ヶ谷本村では神田上水や玉川上水等の上水道網には属さない上水道網の遺構が見つかっているようで、また牛込若宮町では近くの崖面の湧水を水源とした上水道も発掘されています。
このほかにもあちらこちらで遺構が見付かっており、玉川上水敷設以前にもすでに上水道網が出来上がっていたと考えられています。
江戸の上水はもちろん電気などない時代ですから自然流方式で、市内は暗渠化されていて幹線部分は石樋、その他は基本的には木樋(屋敷内等では一部竹樋も見付かっていますが多くはありません)が地中に埋設されていました。ルートの結節点では水見枡等がありましたが、そのほかは密閉されていて、サイフォンの原理で高いところに導水されているところもありました。
上水道で導水された水は木樋から呼び桶で上水井戸に流され、そこから竿の先に釣瓶をつけて汲み出していました。上水井戸は、底のない桶を逆さに数個重ねて造ったもので、最低部のみ板底があります。
木樋を地中に埋めてつなげていくためには、通常はその道筋に沿って全面的に開削していきますが、発掘調査によると、地上からはその道筋の半分程度を掘って、地中で穴をつなげて木樋を通してつなげていく工法が採られていたようです。開削作業の負担を軽減する工法ですね。
現代のように電気やポンプ、大型建設機械のなかった江戸時代ですが、それでも江戸100万住民の生活を潤す十分なインフラが整備されていたのです。江戸の人々の知恵と工夫には頭が下がります。
高見澤