おはようございます。今朝の東京は曇り、比較的過ごしやすい気候ですが、湿気が多く、気温が上がるとムシムシする感じがあります。地下鉄の中も省エネのためか、少し蒸し暑さを感じました。
さて、本日は江戸の下水についてご紹介したいと思います。
ものの本には、江戸時代には下水がなかったかのような書き方をしているものもありますが、下水はしっかりと整備されていたのが実情です。ただ、今と異なって屎尿などの汚物は下水に流されることはありませんでした。皆さんご存知の通り、江戸中期以降は屎尿は生ごみと一緒に近隣の農民に買い取られ、肥溜めなどで発酵させて有機肥料として利用されていました。それ故、西洋のようにチフスやコレラ等の伝染病が蔓延することはほとんどありませんでした。
江戸の道路では、一般的に中央部に上水管が埋設され、道の両脇に下水が設けられていました。いわゆる「どぶ」と呼ばれる下水道です。
長屋の入口を入ると土間があり、そこが台所となっていました。台所で使う水は、上水道の井戸から汲み上げたり、水屋から購入した水を水瓶に溜めたものを使っていたことは、前回、前々回と述べてきた通りです。
台所から出された雑排水は木樋や竹樋で家の外に出し、どぶに流します。どぶには、長屋の人たちが食器の洗い物や洗濯をする井戸端の共同の流し場からの生活排水や雨水の一部なども流れ込みます。といっても家庭からの雑排水は極めて少量です。コメのとぎ汁などは掃除に使ったり、植木に撒いたりしていました。また、雨水の一部は溜めておいて防火用水や道路の水撒きに使われるなど、豊富なように見える水ですが、結構大事に有効利用されていたのですね。
長屋の路地から敷地外のどぶにつながる手前には桝が取り付けられており、複数のどぶを1カ所に集めたり、下水の流れを変える場所に設けられていたようです。そして、町境から道路を横切って隣町のどぶにつながっていました。下水にも生活排水を集めて道路を横切る「横切下水」(橋が架けられていた)、雨水を受け入れた側溝としての役割を果たした「雨落下水」、地面の下に敷設した暗渠の「埋下水」がありました。
こうしたどぶがつながって大下水になるわけですが、江戸時代初期に多数存在していた小河川が暗渠化されて大下水になったものが多かったようです。こうして集められた排水は、最終的には近くの大名屋敷の堀や川に流されます。
水が流れ出すところには杭を横に並べたり、あるいは合掌造り風に杭を打ち込んだりして、下水と一緒に流れてきたゴミを取り除くようにしていました。
江戸で最大の堀といえば、江戸城の外堀と内堀です。先にご紹介した通り、上水は自然流水でしたので、当然大部分の水は利用されないまま流れて行き、その水は江戸城の堀や下水に流されました。また、大名屋敷の庭園の池水としても利用され、その水も下水や堀に排出されました。
つまり、大下水には神田上水や玉川上水からの利用されない大量の水が流れ込み、それが堀に排出されていたのです。当時は、現在と異なり重化学工業等の産業がなかったので、重金属や難解性化学物質、放射性物質などによる水質汚染の心配もありませんでした。
隅田川東岸や西岸下流の埋め立て地では、満ち潮のときには水が満ちており、さらに大きな堀や水路が縦横に形成され、水上交通路として利用されていました。
江戸の都市開発として、上水、下水、堀という3つの水系が相互に関係しながら、堀は上下水の貯水池としての役割を担っていたとの見解もあるようです。自然を利用した都市開発、現代人が江戸に学ぶべきところがここにもあります。
高見澤