おはようございます。
今年のノーベル医学・生理学賞に、東工大名誉教授の大隅良典氏が選ばれました。日本人が3年連続でノーベル賞受賞という快挙で、このことは14年ぶり2回目のことだとか。これが何を意味するのかは分かりませんが、先ずは大隅氏に祝意を表したいと思います。
さて、個人的にはノーベル賞受賞に値する発見とも思える「お酒」について、本日は江戸を絡めてご紹介していきたいと思います。
以前の瓦版で調味料を紹介した際に、「下り醤油」と「地回り醤油」についてのお話をしたことがあったかと思います。お酒についても同様に「下り酒」と「地回り酒」がありました。下り酒は摂津国(大阪府)の伊丹、池田、灘(兵庫県)などから来たお酒で、地回り酒は関東で醸造されたお酒です。
お酒の生産は室町時代後期から大きく進歩したと言われています。それまでは甕(かめ)で醸造していたものが、十斗樽が登場したことで一度に大量の醸造が可能となり、原料の米も玄米から白米に変わり、更には木炭を使って濁酒(どぶろく)を清酒にするなど、現代の日本酒の基本的な製法がほぼ出揃った時期でした。江戸時代初期にこの最新の製法で酒造りをしていたのが、摂津国の造り酒屋だったのです。
江戸時代当初は摂津国から馬の背に樽を振り分けにして運んでいたそうで、これがまた高値で売れたものだから、量が次第に増え、最終的には船で大量に運ぶことになりました。元禄10年(1697年)にはその量が64万樽に達したとの記録があり、一樽四斗(72リットル)ですから、一人当たり年間50リットルを飲んでいた計算になります。その後さらに量が増えて、文化14年(1817年)には100万樽にもなったそうです。
しかしこの下り酒は輸送コストがかかるので、地回り酒に比べかなり割高でした。馬による陸路輸送の時は一升200文、海上輸送になると120~150文、江戸時代後期には諸物価の値上がりで300~400文だったようです。
これに対して地回り酒は味も下り酒に及ばず、中々人気が出ませんでした。そのため美味しいお酒を「下りもの」、不味いさけを「下らないもの」というようになり、それがつまらないものを「くだらない」という語源にもなったとか。
それでも江戸時代後期には、地回り酒も10万樽ほど出荷するようになりましたが、江戸で消費するお酒の1割程度でしかありません。そして値段は下り酒の半額程度だったようです。
安土桃山時代までは、新酒よりも古酒の方が高級品で、甕で密封して貯蔵していたために、色や香りが中国の紹興酒(黄酒、老酒)に似ていたのではないでしょうか?
それが江戸に輸送するようになり、容器を割れない木製の樽にしたため、密封ができず味が変化してしまい、そのために古酒から新酒へと人気が移っていきました。その新酒も良いお酒ほど水の量を少なくして醸造したため、上酒は甘くねっとりとした仕上がりになり、甘口のお酒になったとのことです。
高見澤