藝術倶楽部瓦版 20161031 :江戸の人たちも肉を食べていた !? -ももんじ屋の山くじら

 

おはようございます。10月も今日で終わり、明日から11月です。今年も残すところあと2カ月、今年はどのような締めになり、また来年はどのような展開になるのか、正直言ってワクワクしています。

 

さて、本日は「江戸の肉食」を取り上げてみましょう。

江戸幕府が開かれ、幕府によってバテレン禁止令が出されます。日本の歴史の教科書では、日本が鎖国政策をとり、キリスト教信者への弾圧がなされたと書かれていますが、本当のところはどうなのでしょうか?これについては、また別途紙面を割いてお話をしたいと思いますが、江戸時代はこうした影響もあって、基本的には仏教や神道が信仰の対象となります。特に常に殺生がつきまとう武士にとって仏教は、自らの救いを求める精神の拠りどころだったのかもしれません。それ故、江戸時代は庶民も含め基本的に仏教徒が大半を占めていたものと思われます。

 

仏教の戒律で最も忌み嫌われる殺生、だからこそ日本では長い間獣肉を食べる習慣がなかったといわれています。では魚は?といわれると困ってしまいますが、獣に比べるとまだ許容範囲なのでしょうか、いずれにせよどこかでタンパク質を摂取しなければなりませんので、魚介類が江戸の食文化の中心となっていきます。

 

では、江戸の人々は獣肉をまったく食べなかったのでしょうか?実はそうでもないようで、武士の頭領として一番厳格な食習慣を守らねばならない将軍の膳にはツル、雁、カモの鳥類のほか、ウサギが出ていました。ウサギの数え方が「一羽、二羽」としたのも、動物というよりは鳥類と見做したかったかったからなのでしょうか?クジラもまた当時は魚として認識されていました。鷹狩りなんかが行われた際にも、捕獲した動物を食べていたのでしょう。とはいえ、現代のようにステーキやハンバーグ、とんかつや鳥の唐揚げなどといったように、毎日の食卓に上がったというわけではありません。

 

一方、庶民はといえば、肉食の機会は更に少なかったのではないでしょうか。江戸には「ももんじ屋(百獣屋)」という動物の肉を売る店がありました。江戸時代中期までは屋台や葦簀張りの店で売るだけでしたが、天保(18301844年)の頃から一緒に飲食もできるようになりました。牛、鹿、イノシシ、タヌキ、ウサギなどその時々に入荷した動物の肉で、主にネギを加えて鍋にしていたようです。しかし、原則として肉食を忌み嫌っていましたので、表向き「百獣」とは看板に出せないので、「山くじら」としていました。これは、動物の肉がクジラの肉に似ていたからだといわれています。二代広重の名所江戸百景「びくにはし雪中 」には、その看板が描かれていますよね。

 

江戸時代の人たちが動物の肉を食べる主な目的は、「薬喰い」といわれるように、病気になって体力の回復が必要なときです。中国でも羊の肉を食べると身体が温まるといわれていますが、冷えて血の巡りが悪くなったときに肉を食べると効果があったのかもしれません。

 

私自身、普段はほとんど肉食をしません(食べたいとも思いません)が、さすがに中国駐在中は食べざるを得ませんでした。中国は基本的に大陸性の食習慣ですから、北京ダックやシャブシャブなど肉が欠かせません。そのお蔭もあり、私の胴回りは大きく成長(?)してしまいました。日本人の体質は基本的に中国人と異なっているので、同じように肉食を続けていると身体にかなりの負担がかかります。とはいえ、食べたい時に食べたいものを食べる。これが食の基本なのかもしれません。仏教では決して「欲」を否定しているわけではありません。なぜかって?だって食欲がなければ生きていけないでしょう。欲を知らなければ欲を超えることはできません。仏教が禁止しているのは欲に対する「執着」です。食事も「過ぎたるは及ばざるが如し」、食べ過ぎは身体を壊すからです。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年10月31日 10:33に書いたブログ記事です。

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