東藝術倶楽部瓦版 20161109 :長命寺と道明寺ー江戸と関西の桜餅

 

おはようございます。今日は米国大統領選挙の結果が判明するとして、世界中が注目しているところですが、世界を動かしているごく一部の人たちからすれば、結果は既に分かっているといわれています。というか、世界がそのように誘導されているといってもいいかもしれません。気付きのある一部の人たちからすれば、とんだ茶番劇に付き合わされている思いかもしれませんが、この世界はそのようなものであり、この広い宇宙から見れば、極めて特殊な閉ざされた空間の中に存在させられているといえるでしょう。その中で、江戸の世界はこの地球において宇宙に通ずる唯一の時空間だと思います。なぜかって? だって江戸こそこの地球で最も理想的な社会を実現した世界であるからです。

 

さて、今日も江戸のお菓子について、引き続きご紹介していきたいと思います。

享保年間(17161736年)、江戸向島の長命寺で寺男をしていた(山本)新六という人がいました。新六の仕事は境内の掃除、当時の長命寺は境内が広く、大きな桜の木があったため、秋の落ち葉掃きは大変な重労働であったようでした。新六は毎日この落ち葉を見ながら、これが小判に化けないかなぁ、と狸のようなことを考えていました。そしてある日、この落ち葉になる前の新緑の美しいときに葉を摘み取って塩漬けにしておけば、1年中その葉が使え、菓子作りに仕えるのではないかと、思いつきました。享保2年(1717年)、新六は門前でその葉を使った菓子を売り出します。これが現代にも受け継がれている向島長命寺門前(現在は裏門)にある「山本や」の「桜餅」の由来です。

 

この桜餅ですが、今は小麦粉を溶いて薄くクレープ状に焼いた皮で漉し餡を巻き、それを塩漬けにした桜の葉を2~3枚で包んでいますが、当時は柏餅のような餅状だったようです。包む桜の葉はオオシマザクラの葉で、香がよいことで知られています。新六が餅を作り始めた頃にはまだソメイヨシノという品種はなく、江戸の桜といえはオオシマザクラでした。

 

ちょうどその頃、8代将軍徳川吉宗が向島の土手に桜並木を植えさせたことで、向島が一気に桜の名所となり、春には多くの花見客がやってくるようになっていました。それでこの桜餅が知られるようになったのですが、残念なことに花見シーズン以外には桜餅が売れません。そこで、更なる次の一手が生まれます。

 

文化2年(1805年)、同じ向島に「百花園」という庭園形式の植物園ができました。そこの主人であった佐原鞠塢(さはらきぐう)が「向島七福神めぐり」という観光ルートを開発します。多門寺、白髭神社、百花園、弘福寺、三囲神社、長命寺を結ぶルートです。しかも、正月明けの寒くて参拝客の来たがらない時期にあえて御開帳をしたため、向島は1年中行楽客の来る観光地となり、この「桜餅(長命寺餅)」が江戸有数の名物菓子となりました。

 

一方、関西以西では「道明寺粉」を用いた「道明寺」という桜餅があります。これは京との茶店や和菓子屋でみられる京風の桜餅です。道明寺粉は、蒸して干したもち米を粗めに挽いた保存性のある食品で、大阪府藤井寺市にこの道明寺粉の由来となった「道明寺」という名の寺があります。道明寺粉は千年以上も前にこの寺が考案した「道明寺糒(ほしい)」が元になっており、桜餅の「道明寺」はこの寺の僧が保存食として作ったと言われています。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2016年11月 9日 23:07に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20161108 :煎餅は煎餅にあらず !? ー誰か教えて !! 煎餅のルーツ」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20161110 :菓子と果物-水菓子の由来」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ