東藝術倶楽部瓦版 20161108 :煎餅は煎餅にあらず !? ー誰か教えて !! 煎餅のルーツ

 

東藝術倶楽部会員各位

 

おはようございます。今朝の東京は晴れ、靖国神社近くのイチョウの木はまだ緑色なのに、風の冷たさは冬を思わせるほどです。ちなみに昨日は二十四節気のうちの立冬、暦の上では冬です。いずれまた、江戸の季節や時間についてもご紹介していきたい分野です。

 

さて、本日はお菓子の中でも定番の「煎餅(せんべい)」についてご紹介しましょう。

一般的に煎餅といえば、我々は米を原料に醤油や塩で味付けして焼いたお菓子をイメージしますが、中国で「煎餅(JianBing)」といえば、小麦粉を水や卵で溶いて油を引いた鉄板の上に薄く広げて焼き、その上にネギやパクチー(香菜)等の野菜を載せて、味噌だれなどで味付けした後に、丸めて食べる軽食のことで、お好み焼きに近いものです。実は、日本の関西でも煎餅は小麦粉を使って薄く焼いた甘いお菓子を指すそうで、我々のいう煎餅に相当するものは「おかき」、その小粒のものは「あられ」と呼び、関東とは認識が大分異なっているようです。

 

そもそも江戸の食べ物の多くは、京・大坂からの「下りもの」であったり、あるいはその製法を知る職人たちが江戸に移り住んで作り始めたものがほとんどでした。お菓子も京から多くの職人が来ており、その中にも「煎餅職人」がいたことは間違いありません。江戸時代当時の煎餅作りの基本は、小麦粉を糖蜜でこねた後、一度蒸篭で蒸し、薄く延ばして型で抜き、それを天日干しにして、一枚ずつ鉄の焼き型に入れて焼くという、手間のかかるものでした。中には焼き型に入れずに鉄箸で挟んで焼くことで煎餅を膨らませたり、熱いうちに端を丸めて成形したり、型に模様を彫り込んだりと、いろいろなバリエーションがあったようです。

 

江戸にこうした製法が伝わると、煎餅の名店が登場します。有名処では、元禄(16881704年)時代に北八丁堀の藤屋清左衛門の名物「朝顔煎餅」がありました。これらは「塩煎餅」といわれていましたが、あくまでも小麦粉の塩煎餅で、岩手名物の「南部煎餅」のようなものです。

 

今の形の煎餅ですが、日光街道の2番目の宿場町であった草加宿(埼玉県草加市)で団小屋を営んでいた「おせん」という老婆が、ある侍に団子を平らにして焼いたらどうかといわれたのが始まりという説があります。当時、草加宿一帯の農家では、蒸した米をつぶして丸め、干したもの(堅餅)に塩をまぶして焼いて、おやつとして食べていたようです。これが旅人向けの商品として売り出され、各地に広まり、その後利根川沿岸で生産された醤油で味付けされるようになったのが、草加煎餅の原型といわれています。また、日光街道草加松原の茶屋で売られていた団子を焼き餅にして売ったのが名物になったという説もあります。

餅を使った「かき餅」とも違いますし、今の煎餅が生まれたそのルーツは分かっていないのが本当のところです。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2016年11月 8日 09:18に書いたブログ記事です。

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