おはようございます。今朝の東京は雨、それも少しみぞれ交じりの雨で、今週前半と比べ急激に気温が低下していることが分かります。また、一昨日から福島沖で比較的強い地震が多発、いよいよ東京脱出の時が近づいているのかもしれません。昨日の五井野博士のプレミアム講演、身につまされる思いで聞いていました。今のしがらみに束縛され、行動できない自分に歯がゆさを感じる次第です。
さて、本日も江戸の食についてご紹介していきましょう。
古今東西、特別な時に特別なものを食べる習慣があります。日本では正月にはおせち料理、人日の節句には七草粥、桃の節句には桜餅、端午の節供には粽や柏餅、また中国では地域によって違いはありますが、冬至や春節など行事の度に餃子を食べることが知られています。
そんな中、江戸時代に7月7日の「七夕」に食べていたものをご存知でしょうか?
ご存知の方も少なくないと思いますが、それは「そうめん(素麺)」です。織姫が機織りをする時の細い糸に見えることから、そうめんを食べるようになったとのことで、これを食べると女性は機織りや裁縫が上達するといわれました。
ご存知の通り、そうめんは「うどん」や「冷麦」と同じように小麦粉から作られた麺ですが、その細さは特別です。地域によっては「きしめん(ひもかわ)」、「ほうとう」などもありますし、中国では「刀削麺(Daoxiao Mian)」なんでいうのもあります。
これら麺の起源はよく分かりませんが、一般には中国から日本に伝来したものと考えられています。奈良時代に唐から輸入された14種類の唐菓子の中に「索餅(さくべい)」、「餛飩(こんとん)」、「餺飥(はくたく)」といったものがありますが、これらが今日のそうめんやうどんなどの麺類を指していたのではないかと考えられています。
このなかで、索餅は「无岐奈波(むぎなわ)」と呼ばれ、形がなった縄に似ているので、後に「麦縄」と書かれるようになりました。索(Suo)は中国では細い縄を意味し、餅(Bing)は小麦粉などを練って作る食べ物を指します。中国ではこれら小麦粉で作った食材を総称して「麺(Mian)」と呼ばれます。
この索餅がそうめんになったかというと、そこは不確かなようです。鎌倉時代に入り、新しい麺の製造方法が禅僧たちによって中国から日本にもたらされます。それは、挽き臼で挽かれた粒子の細かい小麦粉だけを使って麺を作り、そこに植物油を塗って伸ばすという製麺法です。これがそうめんであったのではなかいと考えられています。
中国の元の時代の百科全書『居家必用(きょかひつよう)』には、「小麦粉を塩水でこね、油を塗って板の上でもむようにして徐々に細く麺条に延ばしていく。それを油紙でおおう。この麺条を横木にくるくるとかけ、引っぱって細め、日に当てて乾燥する」とあることから、鎌倉時代にもたらされたというのが有力な説なのでしょう。
現代では包装や輸送の関係で、そうめんは20センチほどにカットされて売られていますが、江戸時代はそのままカットしないもの、あるいはぐるぐる巻きにしたものが一般的でした。長いままだと食べるのに不便ですが、「細く長く」の言葉の通り、長寿できるようにとゲン担ぎの意味を込めて長いまま食べていたとのことです。
江戸時代のそうめんの食べ方ですが、前期には茹でた後に水で洗い、味噌から出る溜(たまり)を薄めたつけ汁にネギ、胡麻、山椒、辛子などの薬味を入れて食べていました。夏の暑気払いの毒消しとして入れていたのではないかと思います。中期以降は、醤油の普及とともに、鰹の出し汁に味醂の甘さを足したつけ汁が出回るようになり、薬味も生姜をつかうようになりました。
そうめんの産地は、江戸時代中期まではやはり西日本から下ってくる「下りそうめん」がほとんどでしたが、後期には江戸市中でもそうめん作りが行われるようになります。江戸以外の関東にもそうめんの産地が生まれ、「地回りそうめん」として江戸の旺盛な食欲を支えたようです。
高見澤