おはようございます。今日から2月です。中国では1月28日に旧暦の正月を迎え、連休を利用して多くの観光客が日本を訪れているようですが、その休みももうすぐ終わり、中国行の飛行機は荷物を抱えた中国人で混雑することでしょう。
さて、これまでは江戸時代の暦法についてご紹介してきましたが、では江戸時代の人々の1日はどのような概念だったのでしょうか。
落語の「時そば」に客が「今何時(なんどき)でい?」と時刻を尋ねると、そば屋の主人「へい、九(ここの)つでい」と応じるシーンがあります。宣命暦では1日を12の時間に分ける十二辰刻(じゅうにしんこく)〔十二時辰(じゅうにじしん)〕が使われていました。一辰刻は一時と称され、およそ2時間です。「およそ」というのは、これも後日説明しますが、江戸時代は夜と昼の長さが季節によって変動していたからです(不定時法)。この十二に分けられた辰刻に、それぞれ十二支の名前が付けらえていました。午前零時前後が「子の刻」、午前二時前後が「丑の刻」、午後四時前後が「寅の刻」となります。
一時(2時間)というのは、やはり当時としても時間の単位としては長すぎるので、一辰刻を初刻と正刻に二分していました。昼時を「正午」というのは、午後零時が十二辰刻の「午の正刻」に当るからです。この午の正刻を境として1日を「午前」と「午後」に分けているのです。同様に午前零時(夜の12時)は「正子(しょうし)」と呼ばれます。ちなみに、「子の刻」というのは前日の午後11時から翌日の午前1時までの2時間で、「丑の刻」は午前1時から午前3時までを指します。
平安時代の宮中の儀式や制度の施行細則が記されている『延喜式』によれば、宮中では十二辰刻が太鼓の音によって知らされていたようです。その数は子の刻が「九つ」で、順次一つずつ減らして「四つ」になると、再び「九つ」から始めると定められていました。なぜ「九つ」から「四つ」までで終わるのかは、中国から伝わった慣例だと推測されるだけでよく分かりません。「時そば」で夜中の11時過ぎにそばを食べて勘定を1文少なく払った「九つ時」と、逆に11時前に食べて4文多く払ってしまった「四つ時」の滑稽さがストーリーになるのは、こうした当時の慣習があったからです。
ところで、「おやつ」という言葉があります。いわゆる午前10時頃、あるいは午後3時頃食べる感触のことですね。「子の九つ」は真夜中ですので、単に「九つ」といえば午前11時を指し、その一辰刻後の午後1時から午後3時までが「八つ」となります。昔は1日2食が普通でしたので、八つ時(未の刻)になるとお腹が空いてきます。それで軽食をすることを「おやつ」というようになったとのことです。
今では誰でも正確な時計が分かり、寸秒を争うような生活をしていますが、昔は正確な時刻を必要としていたのは天文博士、暦博士、暦算家などの専門家や役人などに限られていました。江戸の庶民は、現代人のようにあまり時間に縛られることもなかったようですね。
高見澤