東藝術倶楽部瓦版 20170803:菖蒲は尚武に通ず、鯉のぼりも江戸時代からー端午の節句

 

おはようございます。今朝の東京は小雨がパラパラ、比較的涼しい朝を迎えています。明後日6日から仕事で中国吉林省長春と遼寧省大連に行ってきます。帰国は9日の予定です。今月末にも同じ長春での大きな会議が予定されており、本メルマガも更新が思うようにいかないかと思いますので、その旨ご了承ください。

 

さて、皐月の年中行事と言えば、何よりも「端午の節句」を話題にしないわけにはいきません。端午の節句は既に紹介した「五節句」の一つで、旧暦5月5日を「端午」の日を祝う行事となっています。ただ、今では新暦5月5日を「こどもの日」として祝われています。

 

そもそも「端午」とは、「初五」の意味です。「端」は初め、「午」は「五」と音が同じです。つまり、端午は月の初めの午の日を指し、午と五が通じることで、古くは5月以外の月も端午とされていたようです。一方、古代中国では、太初暦(西暦前104年)以降、二十四節気の雨水を含む月を正月とすることが定められましたが、二十四節気の起点が冬至に置かれ、冬至を含む月、すなわち11月を十二支の「子の月」とし、その順番からすると5月が「午の月」となり、5月の最初の午の日は「午」が重なることで、これがまた目出度い日となったということです。

 

この端午の節句も中国から伝わってきたもので、五節句でも説明したかと思いますが、3月3日(重三)や9月9日(重陽)と同じように月と日の数字が重なる日が縁起が良い日とされて、5月5日も同様に祝日になっていました。古来、中国では、端午の日に、野に出て薬草を摘んだり、蓬(よもぎ)で作った人形を家の戸口にかけたり、菖蒲酒を飲んだりして邪気を祓う行事が行われていました。

 

これが平安時代に日本に伝わり、最初は貴族の間で祝われていたものが、次第に民間へと広まっていきました。日本でも菖蒲や蓬を軒につるしたり、ちまきや柏餅を食べたりして祝いますが、昔からこの習慣はあまり変わっていません。この日に菖蒲湯に入る習慣がありますが、これは菖蒲が昔から薬草であり、邪気や悪鬼を追い払って火災を除くと信じられていたからです。

 

江戸時代以降、菖蒲は「尚武(武を重んじる)」と音が同じであることから、男の子のいる家では鯉のぼりを立てたり、甲冑・刀・武者人形などを飾って、子供の成長を祝うようになります。このことから次第に男の子の節句になっていきます。しかし、古来、日本では「さつき」を悪月(あしげつ)・物忌み月とし、「さつき忌み」と称して、田植えが始まる時期、早乙女(田植えをする若い女性)が家に籠って身を清め、田の神を迎え祀るという行事があったことから、5月の節句は元々は女性の節句であったようです。このことから、日本の5月の節句は、日本古来の「さつき忌み」の習慣と、中国伝来の「端午の節句」が融合したものという説もあります。

 

尚、端午の節句に「粽(ちまき)」を食べる習慣があるのは、古代中国・楚の国の屈原(BC343BC277年頃)が秦の張儀の謀略に踊らされる楚の懐王を諌めたが、その諫言が受け入れられず、楚の将来に絶望して5月5日に汨羅(べきら)という河に身を投じたため、その霊を弔う意味で、屈原の姉が餅を作って川に投げ入れたのが始まりだと言われています。また、中国の伝統行事である「ドラゴンボート(龍船)」の由来も、屈原を助けようとした民衆が、先を争って船を出したという言い伝えもあります。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2017年8月 4日 07:58に書いたブログ記事です。

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