水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶというなり-夏越の祓

 

おはようございます。今日で8月も終わり、明日から9月です。この1カ月は仕事でも私事でもいろいろと変化があり、私にとって大きな転機を迎えたような気がしています。これから、ますます楽しみが増えていきそうな予感がしています。

 

さて、本日のテーマは「夏越の祓(なごしのはらえ)」です。旧暦6月末は、1年のちょうど半分が終わる時期で、この時に半年分の「穢れ(けがれ)」を落とす行事が行われます。半年に一度の厄落としである6月晦日に行われるのが「夏越の祓」であるのに対し、その半年後に行われる12月の大晦日に行われるのが「年越の祓」で、この二つの行事は対になっていて、心身を清めてお盆や新年を迎えることになります。大晦日の年越しのような派手さはありませんが、夏越の祓も大切な節目の行事です。

 

この行事の由来は、日本神話でお馴染みの伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらひ)にまで遡るとも言われていますが、朝廷の公式的な行事として定められたのは天武天皇〔生年不明~朱鳥元年(686年)〕の時代です。旧暦6月末は夏の終わりの月とされ、「夏を過ぎ越える日」ということから「夏越」と呼ばれていますが、昔は「名越し」と書かれていたようで、この「なごし」の意味は神意を和らげる「和す(なごす)」が由来ではないかとも言われています。また、6月の和風月名は「水無月」ですから「水無月の祓」とも呼ばれています。

 

夏越の祓で、厄落としの方法として「茅の輪くぐり(ちのわくぐり)」が行われます。「茅の輪」とは、茅(ちがや)という草で編んだ大きな輪のことで、神社の境内に設置されます。この茅の輪の中を、「水無月の夏越の祓する人は、千歳(ちとせ)の命延(の)ぶというなり」と唱えながら8の字を書くように3度くぐりぬけることで、罪や穢れを落とし、病気や禍を免れると信じられています。

 

奈良時代初期に編纂された『備後国風土記』の逸文によると、昔、北の海にいた武塔(むとう)の神が、南の海の神の女(むすめ)を呼びに旅に出た時、途中のある村で宿を請うことになりました。その村には、蘇民将来と巨旦将来という兄弟がおり、裕福な巨旦将来は受け入れを拒否、貧しい蘇民将来は武塔の神を迎え入れ、精一杯歓待しました。蘇民将来の歓待を徳とした武塔の神は、旅の帰りに再びこの村に立ち寄り、自分が素戔嗚尊(スサノオノミコト)であることを明かし、蘇民将来とその家族に、印として茅の輪を作り腰に結び付けておくように言い置いて去っていきました。その後村は疫病に見舞われることになりましたが、茅の輪を付けていた蘇民将来とその家族は疫病に罹らず、村人が死に絶える中、子々孫々まで繁栄したとのことです。

 

夏越の払いでは、茅の輪のほかに、「形代(かたしろ)」による祓を行うところもあります。人の形をした「人形(ひとがた)」、「人形代(ひとかたしろ)」に自分の穢れや災いを移し、祓い清めて川や海に流したり、お焚きあげをしたりする神事です。紙製の人形のほか、藁人形を用いるところもあるようです。このほか、「蘇民将来子孫」という札を玄関に掛けておくところもあります。

 

また、京都では、夏越の祓の際に、「水無月」という和菓子を食べる風習があります。昔、宮中では6月1日に「氷の節句」が行われており、氷室に貯蔵されていた冬の氷を取り寄せ、それを口に含むことで夏の暑さから身を護ろうと祈願していました。ところが夏の氷は庶民にとっては高嶺の花、削り立ての鋭い氷に見立てた生地に、邪気を払う小豆を乗せたお菓子を作り、6月の和風月名の「水無月」と名付けたということです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2017年8月31日 18:35に書いたブログ記事です。

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