東藝術倶楽部瓦版 20171003:七夕のねむたながしー青森「ねぶた祭り」

 

おはようございます。10月に入り、日が明けるのも大分遅くなりました。秋らしく、少し涼しい日が続いていますが、それでも上着を着て歩くと汗ばむ感じがします。東京では、昨晩から今朝に掛けて雨が降っていましたが、一雨ごとに寒くなる気配を感じます。昨日、米国ネバダ州ラスベガスでは、死者58名、負傷者100名超という大変な銃乱射事件が起きましたが、日本でも理解不能な異常な犯罪行為が続いています。何が起きても不思議ではない今の世の中、ある程度の緊張感をもって生活せざるを得ないのかもしれません。

 

さて、本日は「日本三大祭り」ならぬ「東北三大祭り」のうちの一つ、「ねぶた祭り」について紹介しておきたいと思います。このねぶた祭りは主に青森県内を中心に行われている夏祭りで、青森市では8月2~7日、弘前市では8月1~7日にそれぞれ行われます。弘前市の祭りは「ねぷた」と呼ばれ、いずれも漢字では「佞武多」と表記されます。ちなみに東北三大祭りとは、ねぶたのほかには秋田の「竿燈(かんとう)」、「仙台七夕祭」を指し、いずれも毎年8月初旬に行われます。

 

このねぶた祭りは、七夕祭りの灯篭流しが変形したものではないかと言われていますが、その起源は定かではありません。東北各地で行われる「眠り流し」などと共通の習俗で、七夕の行事の一つとしてみられることが多いようです。奈良時代(710794年)に中国から伝来した七夕と、古来、津軽にあった秋の収穫を控えてその妨げとなる睡魔を追い払うお盆に行われていた精霊送り、人形送り、虫送りなどの習俗や行事が一体化し、紙や竹、ローソクの普及とともに灯籠が生まれ、それが変形して人形ねぶた、扇ねぶたになったと考えられています。七夕では、7月7日の夜に穢れを灯籠に移して川や海に流し、無病息災を祈る禊の行事があることは以前紹介した通りですが、これが「ねぶた流し」につながっているようです。

 

もう一つの起源として、平安時代の武将・坂上田村麻呂〔天平宝字2年(758年)~弘仁2年(811年)〕が陸奥国の蝦夷征討(えみしせいとう)〔三十八年戦争第3期〕)の戦場において、敵を油断させておいておびき寄せるために大灯籠、笛、太鼓で囃し立てたことに由来するとの説もあるようですが、田村麻呂は奥州地方からみれば征服者であること、また史実として彼は青森まで来ていないことなどから、どうもこの説は信憑性に欠けるようです。

 

ねぶたは木と竹と針金で枠を作り、それに紙を貼った大小の切子灯籠(きりことうろう)で、金魚形のもの、扇型のもの、歴史上の人物を模ったものなど、意匠にはいろいろな種類があります。連日、夕刻になるとこれに灯をともし、笛や太鼓の音とともに町中を練り回し、最終日には海や川にねぶたを流す「ねぶた流し」が行われます。

 

江戸時代、享保年間(17161735)の頃、青森の油川町付近で、弘前のねぷた祭りを真似て灯籠を持ち歩き踊ったという記録があるようですが、現在のような灯籠(ねぶた)が登場したのは江戸の庶民芸術が爛熟期を迎えた文化年間(18041818年)頃ではなかったかと言われています。その様子を江戸の歌舞伎作者・二代目船遊亭扇橋(せんゆうていせんきょう、1786年~?)〔滑稽舎語仏(こっけいしゃごぶつ)〕が奥州旅行記『奥のしをり』に書き残しているようです。「青森のねぶた祭り」のホームページに、郷土史家の松野武雄さんが昭和41年の『東奥日報』に書いた記事が次の通り紹介されています。

 

「天保13年(1843年)秋田の能代で七夕祭りを見た。それは"ねむたながし"と称して人形を出している。高さ三丈ぐらい(約10メートル)、大きさ三間(約6メートル)、四方の神功皇后三韓統一や加藤清正朝鮮遠征の人形で、蝋燭を灯して、地車でひいている。人々は鉦、太鼓、ほら貝で囃し立て踊り騒いでいた。まことに珍しいことで、これは津軽の弘前や黒石、それに青盛(青森)のあたりにもあるとのことである。」

 

文禄2年(1593年)、京都にて秀吉侯の御前で津軽為信が「津軽の大灯籠」を紹介し、それが年中行事になり、享保7年(1722年)には津軽5代藩主の信寿が弘前のねぶた見物を行ったことが記録として残されているようです。「青森のねぶた」が記録として最初に現れるのが享保年間のことで、油川でねぶた祭りが行われたとのことです。その後、安永年間(17721781年)には「青森ねぶた祭り」に踊りがついたとの記録があり、天明8年(1788年)には比良野貞彦が『奥民図彙』にねぶたの絵を表しています。文化年間にはねぶたが大型化、人形ねぶたが創案されたようです。ねぶたをはじめ、地方の祭りが盛大になっていくのも、また庶民文化が育った江戸時代の大きな特徴と言えましょう。

 

高見澤