東藝術倶楽部瓦版 20171024:太鼓の音が聞こえたらいてもたっても...「岸和田だんじり祭り」

 

おはようございます。台風21号も過ぎ去り、朝を除けば昨日は台風一過の過ごしやすい日でした。衆議院選挙の結果も予想通り自民の圧勝、話題の希望の党は思ったように得票数は伸びず、日本の政治は国民の意思にそぐわない候補の中での選択を強いられた結果を反映したものとなっています。政治的も経済的にも先の見えない日本は、今後どの方向に向かって進めばよいのでしょうか? 智慧のある方にこそ、その答えを求めるべきなのです。

 

さて本日は、9月の祭りとして、昭和の終わりごろから全国的にも知られるようになった「岸和田だんじり祭り」について紹介したいと思います。この「だんじり祭り」が行われる岸和田市は、大阪府西南部、泉南地域に位置する都市で、人口約20万人です。大阪湾に臨む市の中心部は江戸時代・寛永年間(1624年~1645年)以降、岸和田藩主・岡部氏の城下町と栄え、明治時代には泉州錦織物を主とする紡織工業が発展し、昭和に入ってからは埋め立てられた臨海部を中心に木材・鉄工産業で賑わうようになりました。

 

「だんじり」とは、漢字では「地車」と書き、大阪地方で白木造りの大きな山車のことを指します。毎年、だんじり祭りが行われる頃になると、全国のニュースでもこのだんじりが威勢よく街中を駆け抜け、時には道路沿いの建物を壊してしまう映像を見ることができます。岸和田だんじり祭りは、時にはケガ人、過去には死者も出るほどの日本一熱く勇壮で危険な祭とも言われています。行列の途中、他のだんじりに出会うと、勢いにまかせて競り合いや衝突することもあることから、「けんか祭り」、「血祭り」の異称でも知られています。「だんじり祭り」自体は、岸和田以外でも西日本を中心に各地で行われています。

 

岸和田だんじり祭りは、岸和田にある「岸城(きしき)神社」のお祭りで、毎年9月15日前後に行われています。昔は、旧暦6月3日の「牛頭(ごず)天王社」の祭りと旧暦8月13日の「八幡社」の祭りの両日に、だんじりが曳かれていましたが、後に八幡社の日程に一本化されたようです。明治に入り、牛頭天王社と八幡社を合祀して岸城神社と改称し、明治9年(1876年)に新暦9月15日が例祭日となりました。

 

岸和田市のホームページによれば、この岸和田だんじり祭りは、約300年の歴史と伝統を誇り、元禄16年(1703年)に時の岸和田藩主・岡部長泰(おかべながやす)公が、京都伏木稲荷を城内三の丸に勧請し、五穀(米、麦、豆、あわ、ひえ)豊穣を祈願して行った稲荷祭がその始まりと伝えらているとのことです。当初の祭礼は、「俄(にわか、即興の芝居)」や「狂言」などの芸事が演じられ、その後に三の丸神社、岸城神社へ参拝したとされています。

 

また、岸和田市に隣接する貝塚市のホームページでは、泉南地域のだんじり祭りは、江戸時代18世紀の中ごろに岸和田城下町で始まったものとして、延喜3年(1745年)旧暦8月23日、岸和田御宮(現在の岸城神社)と三の丸稲荷社の祭礼の折に、岸和田城下5町(本町、堺町、魚屋町、南町、北町)の町人が小さな軽い「引壇尻(ひきだんじり)」をこしらえて、その上に「作り物(人物や風景を模して作った飾り物)」を載せて曳行したのが始まりと考えられていることが、紹介されています。

 

だんじり祭りに欠かせないのは、何といっても「鳴り物」と呼ばれる「だんじり囃子」です。「太鼓の音が聞こえたら、いてもたっても...」と岸和田の人はよく口にするそうですが、岸和田に限らずそうした祭り好きの人はどこにでもいますよね。鳴り物は青年団から5名が選ばれ担当します。楽器は「篠笛(七笨調子六孔)」二管、「小太鼓」、「鉦」、「大太鼓」です。拍子には「並あし」、「半きざみ」、「きざみ」などがあり、曳行の状態に応じて小太鼓や鉦が拍子を切り替えて、曳き手の心を一つにし足並みを揃えるようにするそうです。夜に行われる灯入れ曳行のときには、子供たちがだんじりに乗り込み、太鼓を叩きますが、子供たちが奏でる鳴り物は情緒があり、激しい昼の曳行とは違った趣があるとのことです。

 

もう一つ、岸和田のだんじりには、至るところに見事な彫物が飾られています。朱塗りや金箔などを施さずに、欅の木目を活かして仕上げられており、人物、馬、霊獣、花鳥、唐草文様など実に多彩なものが彫られているそうです。腰回りや見送り、枡合などには、歌舞伎や浄瑠璃などの演目にもなっている戦記物語や神話の名場面が彫刻されていて、史実と虚構が入り混じった独特の世界観が繰り広げられています。彫刻師がその彫刻の下絵を描く際に、参考とする図柄は浮世絵(錦絵)や絵入りの読み物です。その下絵を基に立体的に構想を膨らまして欅に匠の技を刻み込むというわけです。

 

江戸時代、だんじりの製作にあたっては藩の許可が必要でした。これは庶民に質素倹約を強いていたこともありますが、彫物の図柄の検閲の意味合いが強かったようです。当時は、政道批判や織田家、豊臣家に関連する題材はご法度となっていたため、主として『三国志演義』や『水滸伝』のような中国の物語や、仙人、唐子遊び、源平合戦、川中島の合戦などがテーマになっていました。『太閤記』や『忠臣蔵』などが取り上げられるようになったのは、明治以降のことだそうです。

 

由緒ある宮彫師の一門で「岸上」という一門がありました。日光東照宮をはじめとする寺社建築にも大きな影響を与えた一門ということで有名です。泉州の大工の間で伝説の宮彫師とされている「左甚五郎」が岸和田に隣接する貝塚の生まれとのとの口説が残っており、岸上一門の始祖である「岸上甚五郎義信」が左甚五郎のモデルではないかとの説があります。現在、岸上の直系は残っていませんが、今でもその技は岸和田の彫刻師や大工に受け継がれています。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2017年10月24日 07:55に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20171023:看月、諸所賑へり。家々団子、造酒、すすきの花等月に供すー「仲秋の名月」」です。

次のブログ記事は「 東藝術倶楽部瓦版 20171025:清和源氏相伝の「流鏑馬」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ