東藝術倶楽部瓦版 20180320:「の」の字に設計された江戸の町

 

おはようございます。昨日は、1日腰を温めて休んでいたおかげで、だいぶ楽になりました。冷やして血行が悪くなっていたことが原因かと思います。今朝は多少の痛みは残っていますが、問題なく動けるまでには回復しました。気持ちは若いつもりでも、身体がいうことをききません。

 

さて、本日は「家康の江戸の町造り」についてお話ししていきたいと思います。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍(豊臣方)の総大将・石田三成を打ち破った徳川家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任ぜられます。征夷大将軍とは、令外官(律令の令制の規定にない新設の官職)で、古代は蝦夷地(東北地方)の鎮撫のために臨時に編成された遠征軍の指揮官を指していました。延暦13年(794年)に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)〔天平3年(731年)~大同4年(809年)〕が任ぜられたのが最初で、その後は有名な坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)〔天平宝字2年(758年)~弘仁2年(811年)〕が就任しています。これが建久3年(1192年)に源頼朝が任命されて以降は武士の頭領、武家政治を司る幕府の主宰者の職名となり、足利氏、徳川氏と引き継がれて、それぞれ世襲していくことになります。

 

征夷大将軍となった家康はその年に江戸幕府を開きます。そして、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、同20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川氏による天下がここに成立しました。

 

前回ご紹介した道三堀が完成すると、隅田川河口から江戸城の傍らまで、城の建造に必要な木材や石材を搬入のための運河として利用され、道三堀の左右に舟町が形成されます。現在の常盤橋門外から日本橋の北側かけては元々平地であったこともあって町人の町が出来上がりました。また、江戸城南側の芝、北側の浅草、西側の赤坂や牛込、麹町にも町屋が発展していきました。

 

江戸の町の一番の特徴は、「の」の字型に設計されていたことです。江戸城の本城は大手門の内側にある本丸や二の丸、西の丸大手門の内側にある西の丸などの内郭内に将軍や嗣子・大御所が居住する御殿が造られ、その西側に半蔵門内の吹上に当初は御三家(尾張家、紀伊家、水戸家)の屋敷が置かれました。内濠の外側では、東の大手門下から和田倉門外にかけて譜代大名の屋敷、南の桜田門の外側には外様大名の屋敷が配置されました。また、西側の半蔵門の外側から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地には旗本・御家人の屋敷が置かれ、武家屋敷や大名屋敷の東側にある常盤橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷入江の埋め立て地方面には町地が拡げられていきました。つまり、大手門から数寄屋橋に至るまで「の」の字の濠の内外に将軍、親藩、譜代、外様、御家人・旗本、町人が配置されていることが分かります。驚くべきことは、この「の」の字の渦巻きがさらに拡げられるような構造に設計されていたことなのです。


高見澤

2018年3月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年3月20日 07:58に書いたブログ記事です。

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