東藝術倶楽部瓦版 20180328:四神相応-「江戸の寺社の配置」

 

おはようございます。昨晩、北京から戻ってきました。週末を挟んで3日間、終日中国語と英語に曝され、ホテルに戻れば夜なべをして報告メモを作成し、代休もとらずに本日も朝から出勤です。北京では「釣魚台国賓館」とう迎賓館で会議を行っていたのですが、最終日、急遽会場が変更になり、食事も含め一番南端の14棟での開催となりました。本来であれば北端の5号棟も利用することになっていたのですが、外国からの国賓の宿泊場所となる18号棟の脇を通らなければならず、まさに当日はそこが閉鎖され、厳重な警備態勢が敷かれていました。北京市内のメイン道路である長安街も交通管制が行われ、長時間にわたって反対車線の一般車両の通行が止められていました。何かあったのかと思っていた矢先に、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の訪中可能性の報道を耳にし、歴史的事件のタイミングに巡り合った自分の運命の不可思議さに奇妙な因縁を感じた次第です。

 

さて、本日は「江戸の寺社の配置」について、紹介していきたいと思います。江戸をはじめとする城下町において、武家地、町地とともに寺社地が大きな範囲を占めていましたが、もちろん江戸でも寺社地は比較的広範囲でした。

 

これら寺社地は、風水の要素が多分に考慮されて配置されています。そもそも家康によって江戸の地が選ばれた一因の一つが、北の「玄武(山)」として麹町台地、東の「青龍(河川)」として平川(神田川)、南の「朱雀(海、湖沼)」として日比谷入江、西の「白虎(大道)」として東海道があり、「四神相応(しじんそうおう)」の地であったからだと言われています。

 

この四神相応については、また改めて紹介していきたいと思いますが、この考え方も中国から伝来したもので、韓国や日本でも取り入れられ、平安京もまたこれに基づいて都市造りがなされています。江戸の町が拡大すると、玄武には本郷大地、青龍には大川(隅田川)、朱雀には江戸湾、白虎には甲州街道がそれぞれ対応することになります。確かに、北半球での風の方向や日当たりなどを考えると、こうした地形は気が自然に流れるような感じを受けます。

 

江戸は、この四神相応に加えて、忌むべき方位としての「鬼門」、「裏鬼門」への対応も考慮した寺社の配置がなされています。陰陽道では、鬼が出入りする方角で万事に忌むべき方角とされる「艮(うしとら)」の方角、すなわち北東を鬼門としており、鬼門とは反対の「坤(ひつじさる)」の方角を裏鬼門として忌み嫌う考え方があります。この鬼門から裏鬼門が邪気の通り道とされています。

 

関東を代表する怨霊である平将門〔出生年不詳~天慶3年(940年)〕を祀る「神田明神」は、現在の将門の首塚がある江戸城大手門前から江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移設され、江戸総鎮守として奉じられました。また、江戸城の建設に伴い、城内にあった「山王権現(日枝神社)」を裏鬼門である赤坂へと移しました。

 

更に、家康の側近でブレーンとされる天台宗の僧・南光坊天海〔天正5年(1536年)~寛永20年(1643年)〕が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡(しのぶがおか)を拝領し、京の鬼門封じとされる比叡山延暦寺に倣って堂塔を建設、寛永2年(1625年)に「寛永寺」を開山します。その反対の裏鬼門に配置されているのが「増上寺」というわけですが、もともと江戸貝塚(千代田区紀尾井町)にあったこの寺が江戸城の裏鬼門にあたる現在の芝に移設されたのは慶長3年(1598年)とされています。鬼門の前に裏鬼門を封じるという点が疑問に感じるところですが、結果的に鬼門封じ、裏鬼門封じの形が出来上がっているところに驚かざるを得ません。

 

高見澤

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年3月28日 07:50に書いたブログ記事です。

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