東藝術倶楽部瓦版 20180404:武断政治から文治政治へ-家康からら家綱までの「徳川将軍家」

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ、風もほどよく吹いて、清々しい朝を迎えています。とはいえ、仕事の消化不良で、ストレスはかなりのもののようです。子供が私のスマホのアプリでストレスチェックしたところ、自己申告60に対して90という数値が出ました。給料も増えず、仕事の量は増すばかりですが、自分の成長を楽しみに頑張って毎日を過ごしています。

 

さて、本日は「徳川将軍家」について紹介していきたいと思います。先ずは家康から4代将軍・家綱までをみてみましょう。264年もの長きにわたる平和な社会を築き、維持してきた江戸幕府ですが、その仕組みを構築し、采配を続けてきたのが徳川将軍家です。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍を破った徳川家康は、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任ぜられます。以降、慶応3年(1867年)に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還するまで、徳川政権が続くことになります。この間、征夷大将軍の職を世襲してきたのが徳川将軍家で、「徳川宗家」とも呼ばれています。

 

江戸幕府を開いた家康は、「大御所」として実権は握っていたものの、慶長10年(1605年)に将軍職を3男・秀忠に譲ります。家康の長男・信康は織田信長によって切腹に追い込まれ、すでにこの世の人ではなく、次男・秀康は豊臣秀吉の養子となった後、北関東の名門・結城家の養子となりその家督を継いでいました。家康の後継ぎとして秀康、秀忠のほかに、4男・忠吉を押す声もありましたが、秀康が武勇に秀でている一方で、秀忠は温厚な性格かつ知的であり、平和な世を治めるには武勇よりも知勇に優れた秀忠の方が将軍に向いていたとの判断で、家康は秀忠に決めたと考えられています。家康の死後、リーダーシップを発揮して将軍親政を実施、福島正則等多くの外様大名を改易し、3人の弟を尾張、紀伊、水戸(御三家)に配置するなど、長期政権のための基礎固めを行いました。こうして堅実な政権運営に手腕を発揮した秀忠は、元和9年(1623年)に次男・家光に将軍職を譲ります。秀忠は、家康に倣い、隠居後も実権は握ったままで、幕政は本丸(将軍)と西の丸(大御所)の合議による二元政治が行われていました。

 

秀忠の長男・長丸が早世していたために、将軍職を継いで3代将軍となった家光は、秀忠の死後、公方として親政を始めます。幕政改革を行い、老中、若年寄、奉行、大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする統治機構を確立しました。武家諸法度を改訂し、参勤交代を義務付けたのも家光のときです〔寛永12年(1635年)〕。また、長崎に出島を設置し、日本人・外国人の出入国や対外貿易を厳しく管理、統制したのも家光です。この家光の代まで執られた江戸幕府の一連の強硬政策を、一般に「武断政治」と呼んでいます。

徳川家光

 

慶安4年(1651年)、家光の死に伴い、家光の長男・家綱が第4代将軍に就任します。就任当時、家綱はわずか11歳であったこともあり、慶安の変(由井正雪)が起こるなど政情が一時的に不安定になります。しかし、保科正之(家光の異母弟、初代会津藩主)や家光時代からの名臣の補佐によって危難を乗り越え、以降29年間にわたる安定政権が続きました。末期養子の禁を緩和し、大名証人制度の廃止や殉死禁止令を出すなど、これまでの武力に頼った武断政治から文治政治へと政策が変わるのがこの家綱の頃です。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年4月 4日 07:05に書いたブログ記事です。

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