東藝術倶楽部瓦版 20180409:寛政の改革、天保の改革を経て「イモ公方へ」

 

おはようございます。今朝の東京都心は晴れ、少し肌寒い気もしますが、日中は春らしい気温になりそうです。そういえば、今朝1時半頃、島根県で震度5強の地震がありました。震度4クラスの余震が続いてるようです。ちょうど1年前、日中の有識者会議で松江を訪れていたこともあり、何となく他人事とは思えません。

 

さて、本日も徳川将軍家の続きです。徳川10代将軍・家治が天明6年(1786年)に亡くなると、一橋家から家治の養子に入っていた家斉が天明7年(1787年)に15歳の若さで11代将軍に就任します。

 

家斉は将軍に就くと、家治時代に権勢を振った田沼意次を罷免し、代わって陸奥白川藩主・松平定信を老中首座に任命しました。家斉が若年であったため、家斉が成人するまで定信を代繋ぎにしようとする御三家の狙いがあったようです。定信は老中在任中に積極的な幕府財政の立て直しを図ります。これが「寛政の改革」です。しかし、その施策が厳しすぎたこともあり庶民は反発、家斉は実父・治済と協力して定信を失脚させました。その後、家斉による側近政治が続きます。天保8年(1837年)、家斉は次男・家慶に将軍職を譲り、家慶は12代将軍となりますが、家斉は大御所として幕府の実権を握り続けます。

 

天保12年(1841年)、家斉が死去すると、家慶は四男・家定を世嗣とするとともに、遠州浜松藩主(その前は肥前唐津藩主)で老中首座の水野忠邦を重用します。忠邦もまた幕府財政再建に乗り出します。これが「天保の改革」で、先の享保の改革、寛政の改革と合わせて「江戸の三大改革」と呼ばれています。忠邦の極端な緊縮財政に加え、「蛮社の獄」など厳しい言論統制・弾圧も行われたことから、庶民からも反発を買い、天保14年(1843年)に忠邦は失脚します。家慶は、家臣が意見を聞いても「そうせい」というのみであったことから、「そうせい様」と呼ばれていました。嘉永6年(1853年)、浦賀沖にペリーの軍艦が来航し、その対策に追われるなか、家慶は死去します。

 

家慶の死去に伴い、世嗣の家定が13代将軍に就きます。黒船来航という幕末の難局を迎える中、家定は就任直後から後継問題が浮上するほど体が弱く、一説には脳性麻痺だったともいわれています。将軍として指導力を示すことはできず、幕政は老中の阿部正弘や堀田正睦(ほったまさひろ)らによって主導されました。家定は、菓子作りが趣味で、時には家臣に振る舞っていたことから、「イモ公方」などと呼ばれていました。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2018年4月 9日 08:45に書いたブログ記事です。

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